2010.05.15
ここ数ヶ月
私は結構バタつき精神的にも疲れ多でした。
2月
タイ訪問(通常スケジュール)
3月
中国訪問(研修生の面接)
今年、9月入国予定の研修生の面接で2名採用としましたが
とにかく、3月始めでもマイナス5度~10度でとにかく寒かったです
(1月はマイナス25度位に成ります、、、私は寒いのは駄目です)
当日、面接を終わらせて直ぐに上海に向かい1日上海で過ごし
今年、5月からの上海万博の会場を外から見てきました。
今年、5月~?間に合うかな?
(5月開幕、やっぱり一部間に合いませんでした)
また、同行したペットの服を作って居られる、女性社長姉妹が
上海のペットショップに行きたいとの事で同行して見てきました。
まぁ、社会勉強です。
3月
社員の結婚式
昨年12月~今年9月まで当社では4名が結婚です。
当社は若い社員が多く、結婚し全体に会社も落ち着くと思います。
喜ばしいことで皆頑張ってもらいたいと思います。
また、最近の結婚式は多様化しており
会社としてもこれまでの対応では追いつかず
簡単な規定らしきものを作り直しました。
でも、今回出席させて頂いた社員の結婚式
本当に、お日柄も良く天気は快晴、
そして新郎の当方の社員の側面の部分も見えて良かったです。
また結婚式の披露宴の会場で
獅子舞を披露宴会場に、そのまま持ち込んで舞うのは初めて見ました。
新婚さん二人には末永く、健康で幸せであってほしいと思います。
3月
タイ訪問
現地日本人の面接
当方、別会社(タイPKT)の将来の幹部社員
もともとの知り合いで意思確認を行い、お互い前向きにやって行こうと言う事です。
7月から、当方に来て頂く事に決定です。
3月
中国研修生の帰国
昨年7月から3回(3名)、3年満期で帰国させました。
特に、この1年一人ずつ3回帰国させた事に成り
また、彼女が日本に入国して3年間
私も精神的にも落ち着かない日々が続いており
余り構っていませんでした
トコロテンの様に帰国させた様な感じで可哀想な気もします。
3月
仕事量の落ち込み
経営者は、仕事が多くても少なくても経営者は悩んでしまう
最近、私自身全ての面で悩み疲れしている様に思います。
良くても悪くても、、、
重い部分で毎日落ち着かない
疲れが溜まって これが私の最近の心の中です。
3月 4月
子供の高校卒業と引越し
そして4月に入って直ぐに大学入学式。
私は、この末の子が生まれて直ぐ会社を辞めて独立しました。
(この子が生まれて4ヶ月目の 1992年3月でした)
プラコーは、この子の年齢と共にありますが
私は、これまで仕事を言い訳に、親の役目をほとんどしておらず
今に成って強く反省しています。
たまには親の仕事もしなければ成りません。
子供の為、、、何か久しぶりの気分でした。
4月
社員のお母さんが亡くなられ
お通夜 ⇒ 葬式
今年は4月に入っても寒い日が続いておりましたが
たまたま、天気の良い日に恵まれました。
4月
姪の結婚式
富山市で行われ、久ぶりの身内の結婚式でした。
ただ最近
残念なのは何処の結婚式の披露宴会場でもタバコが吸えない
私と義兄と甥(新婦の兄)と3人で
披露宴会場と喫煙所と行ったり来たりでした。
でも、昔小さかった姪が
私の知らぬ間に、幼女が少女に成り
そして成人して職業についたと思ったら結婚です。
早い、その分 私も年を取ったという事に成ります。
伯父として、いつまでも幸多く幸せであってほしいと思います。
4月
新中国研修生入国
新しい研修生2名が入国しました。
入国後、約1ヶ月間は日本語と日本での生活について講習会が行われ
5月末辺りから正式に配属されます。
今後3年間また、日本での親父となって面倒を見ていかなければ成りません
今回、新たに入国した新研修生2名(19歳と20歳)
中国でかなり日本語の勉強をして来ており
まだ子供ですが素直そうです(子供過ぎるかも、、、、、)。
他、私生活でもバタバタして
最近の私、これまでに無い疲れが溜まっています。
ここまでの疲れは今までに無かった様に思います。
5月のゴールデンウィークは
私は、ここ数年間
そしてこの1年の疲れを取る為に完全休業状態でした
今後、私生活と今後の会社運営
これまではバタバタとぶつかりながらも
この18年間、会社を伸ばし続けてやって来た
大した実力も無い、運が良かっただけと思います。
今後、頭を切り替えないと如何にも成らないかもしれません。
最近の私
全ての面で、疲れが溜まりに溜まり安静必要状態でした。
2010.05.15
タイ王国 情勢
ここ2ヶ月位、盛んにタイの首都バンコクの
商業とビジネス地域にて赤服のデモ活動が続いており
数日前から、デモ隊鎮圧に軍隊が本格的に乗り出して
最終局面に近づいて来ている様に思います。
が、、、、、、、
当方の現地法人の タイPKTテクノCO.,LTD
タイランド、バンコック市、シーロム通り、タニヤプラザビルの住人は大変です。
昨日も、16名の死者と100名以上の負傷者が出たとの事ですが
当方、事務所ビルの玄関先から、100mから先での事です。
昨日も危険な為、午後から事務所を閉めて帰社しており
もう、いい加減収まってほしいものです。
タイランドでは、ここ数年
元首相のタクシン派と反タクシン派が入れ替わりにデモを行っています。
タクシン派=赤服
(タクシン元首相はクーデターで追放、現在中東のドバイ?に潜伏中?)
今回のストは赤服=東北地方(チェンマイやイーサン地方)
昨年4月のパタヤ国際会議(アセアン)妨害
反タクシン派=黄服
一昨年バンコク国際空港(スワンナブーム)占拠事件
現政権側で、アピシット首相になってほとんど活動していない。
これまでの経過からですが
私から見てタイランドの国事態が複雑な側面のある国であると思います。
① 現在主力のデモ隊はタイの国のチェンマイとイーサン地方ですが
チェンマイは赤服タクシンの生まれ故郷
隣の地域のイーサンはもともとラオスであり言葉もラー語を使い多少文化も違う
昔から貧しい地域とされていました(正し人口はあります=選挙に影響力大)。
② 政治(役人)はタイ人、経済は華僑系中国人が握っている様な部分は多々あります。
元首相のタクシンは華僑系のタイ人で中国名を持っており確か
中国名=白、、 何とかという名前であったと思います。
私は始めから
タイ人=国王=(役人)
タクシン=華僑+イーサン(元ラオス)=よそ者?
この辺りが隠れた、一番の問題でないかと思っています。
③ タイ王国はおそらく世界の王国の王様で一番権限を持っておられる国王だと思います。
今の国王のラーマ9世は
今から20年近く前のクーデターの時は、最後に国王が出られて解決されましたが
現在、高齢な上に体調を崩されて昔の様に指導力を発揮できない状態であると思います。
③ 上記のタイの国の構造から、昔から役人が権限を握っており
私もタイビジネスに於いて、アンダーテーブル等の局面が2回ほどありました。
微笑みの国も、裏と表は確実にあり
タイランドと言う国の名前自体に自由と言う意味も含まれているそうですが
利権がらみで基本のハッキリしていない、確立されていない
中途半端な自由主義の慣れの果てかも知れません
この先タイの国は
今回の局面を乗り越えて如何変わって行くのか注視して行きたいと思います。
2010.01.31
最近強く実感している事があります
それは、昨年5月から9月まで当社では
毎月求人活動をハローワーク等にて行い
国の研修生を含め、毎月少しずつ5ヶ月間かけて
社員の募集活動をして、30名ほどの増員をかけました。
我社は富山県の高岡市にあり地元のハローワークに求人を出しています。
昨年5月から大よその求人件数の推移を見て感じることは
私ら富山県の高岡市は昔からアルミサッシ製造の町であり
三協アルミ+立山アルミ(合弁)と新日軽のアルミサッシの城下町です。
此処最近は小子化の影響と経済の情勢からも建物が建たず
かなり生産量も落ちている状態で当然沈滞ムードです。
そして
私の記憶では高岡市のハローワーク求人件数はおよそ
昨年 5月 800件
10月 400件
現在 200件 に落ちています。
一昨年まで 1300件位 の募集件数があった様に記憶しておりますが
この一年半で激減しており
現在
その少ない求人件数の中で製造業の正社員の求人数は
わずか3件~5件位です。
昔、私が製造業の世界に入った時は
私ら富山県の高岡市は製造業が昔から盛んであり
どの求人項目よりも製造業の求人が圧倒的に多く
製造業だけで 500件位はあったので無いかと思います。
現在の社会情勢もあると思いますが
この先、製造加工業で発展してきた日本はどうなるのかと思います。
この10年あまり
不景気で会社をリストラされた年配組みの技術者は
中国等で自分の技術を発展途上国にて
自分の技術の伝承している話もよく聞きます。
今の不景気で仕事が無く社員はリストラされて行く
極端なリストラ等により、当然求人もしない
⇒ 求人が無ければ技術者等の人が育たない
⇒ 人が育たなければ技術が残らない
⇒ 製造業の弱体化という事になり
⇒ 日本自体の製造業は競争力は無くなる。
⇒ 後進国に対する技術競争力も無くなる
⇒ 日本の製造業の時代も終わった。
という事に成って、私も他人事ではありません。
日本の産業の戦後から続いた
一つの延長線の時代の変わり目なのかも知れませんが
だからと言って、他に何が良いのか?
製造業以外、周りを見ても良く似た状態で良いものが見当らない
他にも見当たらない以上
経済全体が下がった状態で物事を考えて行くしかない
私の年から言えば、良き時代も味って多少の納得は出来ますが
私の子供を含めて若い世代は
この先、これまでの負も担ぎ、先が見えない状態で可愛そうな気もします。
しかし
希望を棄ててしまえば成長も何も無い。
私が18年前に独立して1年間の売上げは、今の50分の1位でした。
それでも、バブル以降の不景気な中での生き残りと
売る上げに対する私が手がける部分も多く
不安な状態であっても、結果を出せた喜びは今の数倍感じていました。
要は、生産⇒売上げの ただ数を上げて喜びを感じる時代では無く
他にも目を向けて喜びを感じないといけない様に感じます。
当社の場合、若い社員が圧倒的に多く
( 欠点として、直ぐ甘えに走る傾向は多々あります )
この先5年位?は 様子見? あわてず力の蓄積を行い
内容で仕事の喜びを味わえ様な会社作りを進めて行き
この先、日本では製造技術者が確実に不足すると思います
そして、全ての面で数では無く
客先に安心と信頼という 心の情を持った物作りが出来る製造企業は
やはり日本独特であり強みですが
日本独特の情があるから新興国との数の競争では劣るかもしれません
しかし
目先の利益に走る新興国では、到底真似る事の出来ない心の部分であり
また、今後残るべき日本の製造企業の強さになって行く様に思います。
何か日本を代表した様な事を書き込みましたが
思いだけは
いくら富山県の片田舎の小さな会社であって,力は無くても
そうしないと生き残れないという事だと思いますし
どんな状況であっても、その思いをどれだけ貫き通せるか
一本の矢を貫き通す。、、、これは、私に言える事です。
そして
今すべき事は、先々の希望を棄てず技術と人を磨き
次の時代を迎え撃つ体勢に備えて行かなければ成らないと思います。
2010.01.06
2010年
年頭(プラコー第15期後半)方針
確実な作業を心がけ実行する。
(後ろも振り返り確実な作業を行う)
2009年は新工場稼動等、強引に物事を進めて来ました
今年2010年は日本の製造業全体に変化の年であると思います
変化と云っても
日本の市場の縮小と環境問題等で製造業全体に海外移転等が進み
日本国内は、生き残りと、生き残るべきかどうかの選択が進むと思います
しかし、我々プラスチックの世界でのプラコーは
この先、多少の変化があっても決して引き下がる事は出来ません
如何変化して行くのか
しっかり先々の進むべき道を見極め実行していく事が重要である
と思います。
バブル以降、日本の製造業界は経済の不安定さとコスト面から
人材派遣や海外研修生等の多用で、技術者の底辺が低く
本来の技術者がオペレーターに化けて縮小傾向にあると思います。
私は逆の見方をすれば
この先
人格の備わった技術者を多く抱え、管理された会社で 営業力があり
あるレベル以上の仕事を、こなせる会社は絶対に強いと確信しています。
そして育った技術者を
当社の海外拠点であるプラコータイや、分野は違いますが、PKTテクノ等
との技術の交流を進めて、若いプラコー各社員を成長させる事が私の夢です。
その為にも飛躍一辺倒では無く
(今年は日本経済全体が飛躍では無く、守りの年である)
昨年は、プラコーも大きな花火を打ち上げ、見せ掛けだけは飛躍しました。
今年は、後ろも振り返り、足元を固めて、力を蓄えて、技術+管理面の蓄積を行い
次の飛躍に備えるる事が重要であると思います。
そして、この先の製造業は、ただ多くの数量生産だけで勝負するので無く
確実な知識と技術、そして確実な作業を行い、確実性の高い物作りを行い
信頼されるプラコーの商品(安心)を客先に送り届け
常に、客先から信用を頂ける事が最も重要で後に繋がる事であると思います
それが中国等の新興国との違いであり、今後の当社の進む道であると思います。
今年は世間の情勢からも、飛躍では無く、根拠のある、確実な会社作りを行い
将来に希望を持ち続けて、次のステージに備えて力を付けて行きたいと思います。
2009.12.31
12月28日、2009年の全作業を終えて今年も完了しました。
今年1年を終えての実感は私が独立18年目にして
これだけ変動の激しい年はありませんでした。
これまで経験の無い、どん底から始まり
その後は経験の無い上昇でした。
言い方を変えれば
経験の無いどん底 (会社の存続の検討)から直ぐに切り替え
経験の無い上昇 (別工場の稼動⇒人の増員、対応が全て後追い)
大変な時期(経済情勢)での新工場稼動による花火の打ち上げ
私も、この一年間は精神的にも心の休まる暇がありませんでした。
私は個人、数年分の精神的重荷を1年で背負ったような思いです。
そして私も大変なら
従来から当社に在籍していた社員も、急激な受注量の上昇と稼動
そして当社では、大幅な新たな社員の増員で新人相手で大変でした。
しかし今年の激動の一年で私が一番勉強した事は
会社の経営と運営というものは
いかに決断とコントロールが重要か勉強させられました。
経営者として、決断しコントロールする方の責任と
それを受けて実行する社員の方も重要なポイントであり大変です。
要は
幾ら立派な理想があって進めてみても
実際進む人間(社員)がいるかどうか?この辺が重要であり
もし
今回の場合も当社が、この業界での老舗的会社組織であったら
昨年末から今年前半の様な極端なダウンのドン底の守りの体制から
後2ヶ月位で直ぐ切り替え、今の経済情勢に合わない新工場稼動といった
時代に反した、攻撃的な決断と実行は出来無かったと思います。
ただ
現時点で今年やり残し、来年へ持ち越しの
課題と問題点は沢山残っており来年へ持ち越しと成ります。
今年一年の決断と行動の結果は後の来年以降に付いて来ます。
要は、まだ結果が出ていない延長線に来年があり
来年の景気の先行きは決して良くない話をよく聞きます
この先も気を引き締めていかなけれならない。
やはり、会社の今期のテーマである『守攻』 ということに成ります。
今年2009年、私にとって忘れられない経験の年でした。
来年は、これまでの固定観念の通用しない大変な年に成ると思います。
私も経営者として、この先の怖さを理解しているつもりですが
今日2009年12月31日
今年一年間のまとめとして
私も、会社も、社員も、今年一年間、御苦労様でした。
そして今年、一年お世話に成った方々に感謝したいと思います。
来年も、心身ともに健康であり、成長して皆で頑張りたいと思います。
2009.12.17
報告遅れましたが、11月29日(日曜日)出艇しました。
今回、私は疲れが溜まり?
体調不良で残念ながら参加出来ませんでした。
今回の狙いはアジでしたが
そこそこの大きさで、多い人で10匹位釣ったそうですが
うわさでは多少波があり
船酔いした人間が一番釣り上げたそうです。
私も一度だけ船酔いをした事がありますが
その時は
前日、夜遅くまで飲んで午前様で家に帰り
朝、6:00から船に乗ってキスを釣っていたのですが
如何結う訳か釣れ過ぎ
短時間で30匹程吊り上げて餌を付けている時間が長く
だんだん気持ちが悪く成り吐き出してしまいました。
余り釣れすぎるのも問題です。
その日は
昼頃からお客さんのゴルフコンペでしたが
如何結うわけか前半調子が良くハーフ40位で回りました
自分でもビックリ、後半は例によってバタバタでしたが、、、
疲れていて、力まなかった事が良かったのかも知れません。
いずれにしても今回で
今年のプラコー釣り同好会の行事は終わりました。
今年1年事故が無くて良かった一安心です。
来年も事故も無く、楽しんで大物が釣れたら最高です。
2009.11.14
今月11月11日
一人の研修生が3年満期で帰国しました。
7月に続いて今年二人目の帰国です。
彼女はもともと
プラコーで受け入れた研修生ではなく
昨年6月に、ある同業者が廃業し
その後、入国管理局等の手続きを済ませて
当社で一年半面倒を見て
3年満期を迎えての帰国でした。
彼女は性格は明るく素直で
私も一度も叱った事がありませんが
当社で受け入れた研修生で無かった為
此れまで
プラコーで受け入れた研修生を立てて
少し遠慮していた様に思います。
おそらく彼女の中に
助けてもらったと云う思いがあったと思います。
しかし,彼女の仕事振りを見たとき
6年前に初めて受け入れた研修生を思い出します。
その研修生二人は仕事と私生活共にトラブルも無く
私生活等で心配で、私の方から 『…大丈夫か?』と言うと
帰ってくる言葉が、いつも決まって 『 大丈夫 』でした。
彼女達二人が帰った後
言葉には なかなか表せないのですが
静かに一つの自然な風が通り過ぎ去った様で
帰国後、社内で自然に過ぎ去って行ってしまった
当時、その様な話をしたものでした。
そして彼女も
当社は椅子に座っての検査作業ですが
手先だけで仕事をしているのでは無く、細い小さな身体で
体全体で仕事をして処理量も多く
此れまでクレーム等の問題に関る事は 一度もありませんでした。
18歳で日本に来て21歳での帰国となりましたが 日本に仕事で来た
という意識は確りしており本当に良くやってくれたと思います。
今後の彼女の人生
中国の彼氏の写真を見せてくれた事がありますが
(身長175cm=私と同じ ⇒ 年= 私の半分以下
足が長く、顔もカッコイイ ⇒ 私?です)
また、彼氏と電話で話した事もありますが、、、、
(スミマセン、私中国語、分かりません
私の方は一方的に シェシェ 、ニィハォだけでした)
如何なるか分かりませんが
中国で待っていた、彼氏も大切にして幸多いことを祈ります。
また、如何いう訳か当社の女子従業員は
中国研修生と日本人社員
年齢が近いせいもあり 訳隔てがありません
中国研修生の中に日本人が一人入り
一緒に、ご飯を食べていたり
それとは別に
休憩時間に研修生と日本人社員が二人で机を並べて
笑顔で話し込んだりしている光景を良く見かけます。
私は
これまで仕事の上での現実ばかり見て来ました。
何か
この様な光景を見ると微笑ましくホッとします。
今回帰国した研修生が
その様なムードの中心的役割をしていたと思います。
当方の中国研修生、それを受け入れる日本人社員
小さな光景ですが
私にとって大切にしなければ成らない誇れる光景であり
今後
彼女が残した大切な社風を少しでも長く守って行きたいと思います。
2009.11.01
先年11月始めに
リーマンショックの影響から急激な仕事の落ち込みから
現在まで、ちょうど1年になります。
私も経験の無い過激な1年で
ほとんどの会社が此れまで経験の無いショックを受けた
と思います。
まず、昨年11月始め
11月のオーダーを確認してショックを受けました。
約30%のダウンであったと思います。
その後
12月は50%のダウン、翌年の1月70%ダウン
2月は最悪で80%以上のダウンでした。
ハッキリ会社の存続が如何のでした。
その後
3月半ばに流れが変わり
4月から上昇し、それも急激な増加となり
結果として7月末に南砺工場を立ち上げ
パニック状態の中で進めて此処に来てようやく2工場
何とか工場が回転していける目処が立った様に思います。
しかし本当に、この一年激動でした。
昨年末から、極端な下降後の
増産+新規工場稼動⇒社員も整わない中での2工場分割
プラスチック成形業は24時間稼動の仕事ですから
私も昼とは別に、約1ヶ月間深夜勤務で工場に泊まりこみ
その後も、なかなか軌道に乗らない為
心配で眠れず最近まで毎日3時間程度の睡眠が続いておりました。
社員も 今年5月から9月まで
受注量に合わせ、月一のペースで求人を行った結果30名程の
新人社員を増員しましたが
私自身も
プレッシャーとバタつきから経営判断が、まともでは無く
バタバタの状態で増員しても社内が殺気だった様な状態で
新入社員は面食らうだけで正直、定着率も悪かったです
決して途中去って行った人を責められるものではありません。
ただ会社として
客先にも迷惑がかかり、後戻りも出来ない、妥協も出来ない状態でした。
しかし
一つ挑戦する以上、ある程度のリスクは仕方の無いものです。
最近、何とか2工場とも物の回転も少し良くなり
まだ問題は残っていますが、確実に工場として機能して来ており
落ち着きを見込める状態に成った様に思います。
今、冷静に考てみて自己満足かも知れませんが
もともと小さな組織力の会社が
一度落ちたものを、急激に上げて対応する事さえ大変です
それを今回
落ちたところに急激な上昇の中、小さな組織でありながら
社員を分割し、新人を増員して無理やり事を進めた、、、
今の経済情勢からも時期的にも大変な事をしてしまった
と実感しています。しかし
これは私一人では どうにも成らない社員が在っての事です。
今年入社した社員
男性社員だけでも20代で10名増員しましたが
私の方針で
先々の答えは、日本の製造業の良き時代は終り
過去から答えを求めるので無く
未来から、その答えを求めなくてはいけない。
と思っています。
その方針に沿って新人社員は男女共に未経験者です
経験は無いが、その分業界等での固定観念の無い
20代の若い社員が殆どで確かにコントロールは大変ですが
将来に夢があります。
何処まで立派な事を言っていられるか判りませんが
今後、少し落ち着いた経営スタイルに変え
私、そして会社は小さな力かも知れませんが
昔から進めて来た基本に戻り
可能な限り人材育成にも目を向けスクール等に派遣し
個々に、出来るだけの成長のチャンスを与えて
若い人材を育てて成長させるだけの器量を持続けたいものです。
この一年間の激動で、今回の私は
これまで経験の無い極端な下がり⇒上がりでコントロールも悪く
目標達成の為に全ての面に於いて かなり強引に事を進めました。
此れまでの社員+新人社員、そして一面食った人たち等
後戻りの出来ない、一つの事業を達成する為に
私に関った人達全員に迷惑をかけたと思います。
改めて
共に働いている現社員に感謝し侘びを入れておかねば成りません。
ただ、現状は多少バブル化しており先は分かりません。
現在の状態は
小高い険しい山の尾根を歩いている様に思います。
今の社会の情勢から
右に落ちても左に落ちても、どちらも転がり落ちる状態で
尾根の先もガスが罹り先が見えない状態であると思います。
今までの経験から、もう一ついえる事は
やっとバタつきが解消され体勢が整った時点で
下降線をたどっており、先々気を緩めることは出来ませんが
今日の11月1日
ちょうど1年前の、昨年11月から半年の落ち込み
その後、半年間の急激な増産体勢には
新人も含めてですが、社員には強引に付き合わせて来ました。
昨年11月からの、この一年を振り返り今日を一つのけじめとして
改めて
協力してくれた各社員に感謝して、先々も共に前へ進めて行きたいと思います。
2009.10.26
10月25日、同好会の月例定期出艇日でした。
お蔭様で今年の目標
≪ 何でも良いから40cm以上の魚ゲット ≫
お恥ずかしい、、、、小さな目標でしたが達成しました。
シイラ 65cmです。。。。。ただただ感激です。
今回、ブリの小さい魚=フクラギが目標でしたが、、、、
何でも良い40cm以上ゲットです。
今回、4人で出艇し確かに大物狙いでしたが
本当に大物が引っかかり
糸を切らした者が2名 +竿を折らした者が2名おり
本当に釣った魚と格闘した、、と云った感触です。
竿を折らした2名の一人は私ですが
私の場合は残念な事に魚がヒットして折れた訳
ではありません
針を上げて餌を付けている際
私の不注意で折れてしまいました、情けない話です
後3名は本当に大物が引っかかり釣った魚との
格闘の結果です。
今回は
天気晴れ+波も静か(一部ベタ状態)
+少ないが大物ゲット
これまで私に付いた定説?も消え
(変な定説⇒私にはもう無い⇒と⇒ 勝手に思っている)
今だから言います。
実は私以外 もう一人定説者がおりました。
ゴルフで言えば、BMとBBを二人で争っていた様なものです。
彼も? 消えた、、様? です?が? ⇒ 私知りません(ライバルですから)
⇒ 彼は今後、私が釣れなかった時の言訳の予備に残しておきます。
来月の11月は本命のフクラギをゲットして また報告します。
釣も今回の様な事があれば意外と面白い、はまってしまうかも?
(今日の私、単純にワガママな気分屋です)
2009.10.17
この4年間、10月に成ると思い出す事があります。
それは、今から4年前の10月に成りますが
プラコータイ(PLT)の創業当初
立ち上げの何も無い状態から協力してくれた
元従業員が亡くなりました。
彼女の名前は 《 クッカイ 》 といい
プラコータイの創業当初に大学を卒業して
すぐに、プラコータイ入社して
3年間当方に在籍後
自分の田舎(ウドンタニ)に帰り
小学校の先生をして1年経過していました。
たまたま私が,タイ訪問時に
プラコータイ日本人責任者から
一年前に会社を辞めたクッカイが、
今年5月に頭に脳腫瘍が出来て
現在は植物人間になっており、
今日か明日かの状態だと報告がありました。
すぐ、私はタイ人スタッフに詳細を調べさせたところ
やはり延命治療を行っており
何時まで持つか判らないとの事でした。
当社を辞めた人間ですが
私から見れば外国のタイで事業を起こし
プラコータイ創業当初のスタッフでもあり
このまま日本に帰ってしまえば
彼女に会うことも二度と無いと思い
翌日、PKT(タイ PKTテクノ)タイ事務所の
タイ人スタッフと一緒に
日帰りで、彼女の田舎(ウドンタニ)に
見舞いに行く事を決めました。
彼女の田舎はバンコクから飛行機で
1時間位のラオスの国境近くにあり
当日、ウドンタニ到着後
クッカイと幼馴染で 同じ大学を出て同期入社し
数ヶ月前にプラコータイを退社しウドンタニに戻って家業を手伝っていた
ピッサマイ が空港に迎えに来ており、彼女の案内で病院に向いました。
病院は車で空港から30分位の処に病院があり
9:00頃、病院に着きました。
クッカイは 集中治療室に入っており、朝の面会時間はもう終わっていましたが
日本からわざわざ面会に来た、という事で特別に面会をさせてもらいました。
久しぶりの面会
ハッキリ言ってショックでした。
20代の、まだ充分若い娘が延命治療室で機械により呼吸をしており
目を閉じたまま 顔の表情一つ無い、本当に機械だけで命をつないでいる。
一年ぶりに再会して、まともに声も掛けられない。
手を握って小さな声で 『 クッカイ スースー(頑張れ) 』
と言うのが精一杯で、後は黙って顔を見ている事しか出来ませんでした。
一年前までの、味のあるヒョウヒョウとした彼女とは完全に別人であり
言葉は悪いですか、ただ機械で息だけをしている一つの固体の様で
後は如何表現していいのか判りませんでした。
30分位面会して、家族の方とも1時間近く面談し
日本スタイルであれば、入院すると見舞金がありますが
タイ スタイルでは、その様な金は香典に当たるとの事で
失礼の無い様に家族に日本スタイルを説明して見舞金を渡し
数ヶ月前から、事務所に飾ってあった日本人形をお土産に受け取ってもらい
病院を後にしました。
その後は
同行のスタッフから帰りの飛行機が21:30分で、まだ10時間近くあり
ラオスのビェンチャンに1時間30分位でいけるから訪問しませんか?
との事
当方スタッフも、この地区(ウドンタニ)の出身でラオ語(ラオス語)を
話す事が出来、時間調整の為にラオス訪問する事にしました。
私は途中、車の中で
プラコータイを稼動させ、すぐに、憎めない味のあるクッカイが大学を卒業して入社し
私も定期的にタイを訪問しているだけで、彼女とは小さな関りでしたが
新年会で騒ぎすぎて、当社タイ人社員の彼氏から叱られ、べそを掻いて泣いていた事や
会社パーティで、私からのプレゼントを受け取り、感激して私の頬にキスをしてくれた事
そして
PKT(タイPKTテクノ)が、プラコータイ事務所から独立して事務所を構える際に
PKT責任者の日本人に、半分冗談で?、PKT事務所に、どうしても一緒に行きたい
と言っていた事など
ただ ボッとしながら、これまでの彼女との関りを思い出しておりました。
ラオス入国後、首都ビェンチャンに着き
昔はフランス領の為、凱旋門があり首都であっても町そのものは大きく無く
町も人も素朴に感じました。
その後、メコン川を見ましたが海まで数千キロの上流でも、
川幅は1km位あり ビックリしましたが
朝の病院訪問の事もあり、素直に観光気分には成れませんでした。
そして同行のスタッフに
バンコクに帰る前に、もう一度病院に行きたいと伝えラオスを後にしました。
病院には18:00頃に戻り
すぐ集中治療室に入り クッカイと再度会いました
私も彼女と会うのは、これが本当に最後と思い彼女の手を握って
日本語で
『 クッカイ、社長やぞ、、判るか、、、 元気出せよ 』
と今回はハッキリと声をかけたところ
それまで人工呼吸機で定期的に大きく機械の様に呼吸をしていたのが
急に止まり
しばらくしてから、彼女の目から少しずつ涙が出てきました。
私は余りにも突然の事で しばらく言葉も出ませんでしたが
再度
『 クッカイ元気になって、プラコータイに戻って来い 』 と手を握って
言ってやるだけが精一杯で、後は声も詰まり、言葉も浮かびませんでした。
そして、私が集中治療室を出るまで
クッカイは人工呼吸器での呼吸はせずに、目を閉じたまま涙を浮かべており
私は部屋を出る際、彼女の涙を手でふき取ってやり
最後に 『 クッカイ パヤヤーム スースー ナ 』と最後に励まし
私は切ない思いだけで、如何にも成らない、如何してやる事も出来ない
ただ不愍であり、切なく苦しく 後ろ髪を引かれる思いで集中治療室を出ました。
彼女は私の事を、いつも少し高めのトーンで 『 シャッチョウ 』 と呼んでいましたので
彼女にとっての シャッチョウ と言う言葉の人間は 私しかいません。
今の彼女は、身体も動かず、目を閉じたまま、意識が有るのか判らない状態
そして日本語も、まともに知らないタイ人ですが
彼女にとっての シャッチョウ である私を 最後に理解できたのだと思います。
集中治療室を出て
私の手を取って、泣き崩れる両親に挨拶をして
それまで気丈に振舞い、病院玄関まで送りに来てくれた
彼女の、お姉さんとも最後の最後に泣き崩れながらの最後の挨拶となり
元社員のピッサマイとも、挨拶を済ませ病院を後にして空港に向いました。
私も当方スタッフも言葉は少なめで、夕食はレストランに入りましたが
ビールを少し飲むだけで余り食べませんでした。
ただ黙って物思いに耽るだけで、そのままバンコク行きの飛行機に乗り
22:30分頃バンコクに到着、空港でスタッフと分かれて帰宅しました。
翌日(金曜)夕方に プラコータイから
クッカイの体から集中治療器が取り外され 息を引き取ったと報告が来ました。
そして
一緒に仕事をしていた古株の タイ人スタッフ+ワーカー15人位から
泣きながら、日曜日のクッカイの葬式に出たいとの申し出があり
幸い、翌日の土曜日は休日でしたので許可を出し
会社で小型バスを手配してやり、片道6時間かけて葬式に行かせました。
その後、報告を受けた際に判ったのですが
本当は私のウドンタニ訪問日に集中治療器が取り外される予定であったと
聞かされました。 その時点から、私は何であったのか?
彼女の両親は
自分の可愛い子供に、これ以上の苦痛を与え続けたく無いと云う
親が子に対する愛情故の苦渋の選択の実行日であったと思います。
私は、
親が子に対する愛情故の苦渋の判断の中に割り込んで入ってしまった事に成ります。
4年経った今でも、自分はいったい何だったのか、、その思いは残っています。
その後
クッカイはタイスタイルの葬儀で火葬にされた後、灰を花火に仕込んで
空高く打ち上げられ、そのまま空から静かに故郷の大地に戻り
クッカイの幼馴染の元社員の ピッサマイは
それから数ヵ月後
クッカイに代わり、プラコータイにスタッフとして復帰して来ました。
人生、良い悪いは別にして人との関りの中で生きて行きます。
私も一応、シャチョウ(社長)をしており、情に流され判断を誤る事は絶対に禁物ですが
悪い関り合いは別にして
良い関り合いは、国、性別関係なく大切にして、少しでも長い関り合いを持ちたいものです。