2009.10.16
9月中旬に、ある大手コネクターメーカー監査を受けました。
結果は、、、×です⇒ 改善要求、多々、、かなり重いものに成りました。
強く否定された訳ではありませんが
私自身がこれまで進めて来た方向性そのものが違うと感じ
1ヶ月近くたった今まで、何か悶々として答えが出せないでいました。
今回のメーカー監査は車関連の電装部品メーカーであり
監査内容は厳しい目で見られる事は覚悟し当方も監査に備えて
5Sから始まり資料等整理して望みましたが残念です。
プラスチック成形の世界でも、
私達が生産しているコネクター類は一番?管理が大変であると自負しております。
これまでも、車関連の電装部品では常に100%良品の完璧さを求められており
クレームを多発させた際に、私自身も自信が無くなり
この先、何処まで客先の要求についていけるのか?
限界点は必ず来る ⇒その際どうしょうか
これまで何度も考え悩んだ事があり、客先対応として
取り合えず、 クレームを起こすな、、、それだけで進めて来て
言い方を変えれば
一つの単純な方向性での限界点と云う事に成ると思います。
今年に入り、メーカー監査は4回ほど受けましたが
今回のメーカー監査はフル監査ではありませんが一級監査と判断して望みました。
最近感じる事は
これまでプラスチック成形業においてコネクターの製造は
ISO9000的管理は当たり前で一番管理が厳しいものと受け止めて進めて
参りましたが
此処1~2年でコネクターの中でも
車関連の電装コネクターはTS9000等の絡みもあり
もう一ランク上の見方(最上ランク?)を要求されるようになりました。
原因は
車のコンピュター化が進み、素人が目で見て異常個所が判断できず
性能+制御を 信用+信頼しないと車に乗れない⇒信頼が第一になって来ており
当社がそれを怠るとブレーキ等の作動不良が人命に関ってしまう問題にも成り
新聞紙上に見かけるリコールにも発展する事にもなります。
要は100万個に1個の不良、1000万個に1個の不良であっても
当方の製品が原因で交通事故で人の命が亡くなった時
1000万個に1個の不良であるから、と絶対に許されない事であるという事
に成ります。
これまでの私、、、答えが出せない悩んでました。
原因は
進めるべき本筋を理解しないで見せかけの改善だけで済ませても
逆に管理がチグハグするだけで後でボロが出て問題を作ってしまう。
そして、現在のプラコーの管理事に対する意識と力量です。
結論は
これまでプラコーはISO9001取得済みであり
今年8月も更新の監査を受けましたが
指摘事項がほとんど無い状態で更新がすみました。
そこで尚更
ISO9001止まりの感覚で満足しており変な自信の様なものがあり
今回の様な、完璧を求められる監査に対する答えを出せず迷ってしまう
しかし今回の監査で求められているのは
ISO9001の管理事では無く、TS9000での管理事であるという事です。
まず
TS9000の管理システムで何を求めているのか勉強する事が第一である
という事に成り
TS9000=重いが、この先、理解し進めて行かないと仕事が貰えない
私の管理能力以上であっても、受け入れて進めて行かないと
プラコーの明日が無いという事になります。
この先、私を含め会社全体が勉強して受け入れ進めていかなければ成らない
大変ですが
この先、進めていく上での結論という事になります。
2009.09.03
8月30日(日曜日)は、毎月恒例のプラコー釣同好会の出艇日でしたが、、、、、
残念ながら、天候は悪くなかったのですが,海が荒れており
釣り船(プラコーⅡ)の出艇は出来ませんでした。
毎月、最終日曜日にプラコー同好会の出艇日としていますが
当日、天候が荒れている為に出艇の取りやめが今年2回目です。
自然には勝てません、そして今年の私の成績はイマイチです。
(私の参加出来なかった7月26日はそこそこ釣れてます)
同好会の中でも私は成績が悪く、私が参加すると釣れ無い⇒船を出せない
私の愚痴も多くなり、そろそろ変なジンクスが付きそうです。
(裏では、もう言われているかも知れません ⇒いや、、⇒絶対言われている)
愚痴ですが
魚が豊富なはずの富山湾、、、、、、魚少なくないですか?
それとも私に
知識が無いのか? 腕が悪いのか? 粘りが無いのか? 偶偶なのか?
本当に魚がいないのか?(その日はいなかった事にしておきます)
取り合えず、
次回9月27日(日曜日)頑張って、ブリでも釣れたら、、、(絶対無理)
また、報告します。
2009.08.30
お蔭様で
当方の射出成形機の持ち台数は3拠点で
18t~100tまで成形機の持ち台数だけは60台となりましたが
その各機械毎に段取りと品質等の維持管理が 付いて回ると言う事に成ります。
37歳の、17年前に独立当時の私の目標は
47歳の、独立10年間目で、スタート時の工場(一級住宅街)から出て
80坪位の工場を建て5~6台の成形機を持ち
50歳の、独立13年以降は家内家業でノンビリやるのが独立当初の私の夢でした。
しかし
独立以前からの知り合いの方々、そして独立後の色んな方々との出会い
その時々の判断として,正論での方向性を追い,それを前向きに実行を続けて行くうちに
独立当初の予定(目標)の形だけは10倍の規模に成った事になります。
バブルがはじけて大変な時期での独立
バブル以降の下請け製造業のマイナス的思考が続いている現在の経済情勢ですが
私の見方は
今の状態が当り前でバブルまでは日本経済成長が良すぎただけである。
天をある程度、見極めた国の経済が、それ以上を簡単に求めても無理な様に思います。
しかし経営者の経営等の判断基準は、
どうしても、良き時代を忘れる事が出来ずに追い求めて、待ち続けている。
これでは時代が代わり、何時までたっても待ちの経営であり前に進む事が出来ない
頭を切り替え
時代を受け止め、時代を見据えた経営スタイルに変えて行かなければ成らない様に思います。
私個人のサラリーマンから町工場の親父、そして海外にも会社を持ち社長業への移項
、、、、決して浮れている状態ではありません。
私はこの業界に入るまで
某上場アパレル企業の管理関係の仕事をさせて頂いた事がありますが
当時、私は まだ若く仕事に対する管理能力は=0だったと思います。
そこで、苦手な管理関係より
実際に自分の手で物作をしてみたいと思い、29歳でプラスチックの世界に入りました。
初めて3交替をさせて貰い、ほとんどセットしてある機械で自分で物作りをしましたが
それも2年半だけで、その後、技術部にて新型のトライ担当を1年間行い。
また管理関係に廻され、その後しばらくして、その部門の親分になってしまいました。
それならと自分で独立して
自分での物作りを始めましたが、5~6年で社員も増えてタイにも工場を作ることになり
結果として
現在の私は、まだ一人歩きの出来ない中途半端な拠点ばかり4拠点作って
会社はあっても、自分での物作りをしない存在と成ってしまい
言い方を変えれば、中途半端な志だけで
自分での物作りを真当を出来なかった、中途半端な人間と言う事になります。
話は戻り
世の中、経済活動の縮小傾向の中での今回の工場立ち上げ、、大、大大、、大大変です。
だけど、進めた以上は真当しなければ成らない。
そして、規模が小さくても、これからの製造業の有り方を勉強して実行していく事により
先の答えを出しながら進んで行かなければなりません。
その答えは
バブル以前の良き時代の右肩上がりの考え方では通用するものでは絶対に無い
注意しなければ成らないのは
今までのやり方が、こうであったから、、 とか、、大多数意見がこうであったから、、
また、、、経済学者なり人がこう言ったからと、、、
ただ良き時代の経験から答えを出し、それを進むべき道であると信じ進めていく
今の世の中
その様な無責任な考え方事態もっとも危険な事であり私は強く拒否しております。
要は
過去から答えを求めるので無く
未来から答えを求めなくてはいけない。
そして
会社経営は、時期 +資金 +人材 +業務内容 +そして客先 で企業ごとに違う
(天 +地 +人 という事に成ります)
我社(プラコー)は我社(プラコー)に合った経営があるはずであり
会社社長は、自分の会社に合った経営スタイルを真剣に考え
責任を持って実行して行かなければ成らないと思うのですが
現在も、おそらく先々も、常に上下+左右に状況は変化し、、、(流動的経済?)
簡単に先々の答えは出せません
プラコーという会社を、その時々の流動的流れの中で
本当に
その時々を如何運営していくか真剣に考え、確実に実行していかなければならない
この先も、私一人では如何にも成らない
プラコー社員+社外の御取引先等の方々の御力を、お借りして進めて行かなければならない。
そして、この先も私自身が手を緩める事なく
少しでも明確な答えを出しながら、少しでも確実に実行して今後も進めて行きたいと思います。
私にとって 文章を書いて作る、と云う事は、どうしても自分の頭の中の整理と成ってしまい
今日も、何か私の教訓めいた内容に成ってしまいました。
2009.07.19
昨日の7月18日
一人の中国研修生が3年満期で帰国しました。
これまで中国研修生を毎年採用して6年になり
この3年間は毎年中国に帰国させている事になります。
今から6年前に初めて二人の研修生を呼び寄せました。
日本入国当時は言葉もわからず
如何接して良いか分かりませんでした。
まず、食事を如何するか?
それ以前に食事の材料は何が良いのか?
分からず、ただ心配で
入国当時はアパート住まいでしたので
様子見に通ったものでした。
2日目位に
研修生の方から餃子を作りたいと言い出し
小麦粉やら具の材料 +伸ばし棒などを
近くのスーパーに行き調達
そして彼女らの餃子を作るのを見て
私も一緒に成って始めて餃子を作ってみましたが
これが、日本では味わえない肉の脂の乗った、
なかなかいける味でした。
これがきっかけで何とか打ち解けるようになり
それからは私も日本のパパさん気取りで
あちこち連れ回したものでしたが
2年目、3年目と研修生の頭数も多くなり
何処に行くにも
10名近くの人数をまとめて面倒が見れなくなり
現在は、全員で外に連れ出す機会も少なくなりました。
本音は私も面倒を見るのが疲れてきたのもあります。
私は、研修生の新規採用について
3年間付き合うことを前提に
私が中国に出向いて直接面接します。
その為、中国瀋陽を毎年訪問しています。
その際に新しく来た研修生の家族とお会いして食事をします。
そして中国の両親と対面し食事しながら必ず両親に伝える事があります。
それは
私は3年間、貴方方に代わりに日本のパパに成ります。
これは貴方方の娘を預る以上は日本で絶対事故等が絶対あってはいけない。
私は3年間 生活習慣の違う他人の子供を預かる事になります。
日本で事故が無い様に貴方方以上に厳しく教育するかも知れません。
私は3年間、貴方方の子供を預る責任として
日本での仕事と生活を終えて中国に帰国する3年間は、健康であり五体満足な身体と
大人に成長した姿で貴方方に返したいと思っている。
貴方方が中国で自分の娘を甘く育てたのであれば、私は厳しく見えるかも知れない
逆に貴方方の大切な子供が貴方方の目の届かぬ処で破目はずし事故が起きたら大変である。
私は大切な貴方方の子供を、3年間預かり健康で事故も無く、教育と生活の面倒をみて
満期の3年後には、健康な身体で貴方方に送り返す責任も私にはある。
ある程度、日本での生活は必要以上に厳しく教育していく事を理解して頂きたい。
以上の事柄を中国の両親そして家族に必ず伝えます。
これを、日本に帰り
研修生本人にも中国訪問して両親に伝えた事を言い聞かせています。
しかし
いくら立派な事を述べて進めて行っても、中国人も(日本人も)個人差バラバラで
この6年間、お蔭様で他人に迷惑をかける様な大きな問題は発生していませんが
生活習慣がもともと違い、小さな問題はそれなりに発生しました
しかし、今思うことは一つあります。
それは、思想、生活習慣の違う国から仕事が目的で中国から呼び寄せており
仕事の上では私自身も腹が立ち爆発した事も何度かありますが
3年間面倒をみて
研修生本人は如何思っているかは別にして
中国に帰す頃に成ると中国の両親に立派な事を言って
五体満足の身体で帰せる、最低限の責任を果たせた喜びの様なものを感じます。
私生活で言えば、当方の研修生は
それぞれ個性があり一人一人が性格的に子供で素直で可愛い子供達であったと思います。
現在
私の会社に居た研修生は、結婚した子が数人、今年夏に結婚する子(当社の男女)
今、結婚を考えている子
日本で日本語検定の3級を合格し中国に返ってから本格的に日本語を勉強している子
現在もイタリアの大学に留学中で現在4ヶ国語?を話せる子など、、、、の
元研修生等がいて、それぞれ頑張っている様です。
私は、研修生を中国に帰す際、私からの最後の言葉に
この後の人生、50年経っても、日本で過した3年間の生活を忘れないで下さい。
そして
中国では給料が少ないかも知れない、しかし人として地道に働く事が一番重要です。
と最後に教育します。
昨日、帰国した研修生が大連に着いて直ぐ電話が入り
『 無事中国に帰りました、今両親と彼氏も一緒に居ます、3年間有難う御座いました 』 と
彼女からの最後の報告がありました。
私は、ここで初めて
3年間一つの仕事を無事に終えた安堵感、 そして複雑な思いをしています。
2009.07.01
『 守攻‐2009 』 2009/ 07/ 01
守るべきものは確実に守り、その上で未来をしっかり攻める
守りきれないものは攻める資格が無い。
《 守 》 =プラコーは製造業である
最大の守りは作り込み段階(製造)で如何守り
後工程(検査)で完成度をどう高めるかである。
《 攻 》 =5年先10年先と攻めて行かないと明日の
プラコーは 存続しない、守りだけでは衰退である。
プラコーはこの先も
守るべきところはしっかり守り
攻めるところはしっかり攻め
存在価値のある会社に発展して行かなければならない。
【製造部】
プラコー製造部は若い社員が多い分、将来的な希望は多いに
見込めるが若さを甘えに変えてはいけない、 若いからと
トラブルを起こしても客先等、ビジネス社会では絶対に認めない。
甘えて待つのではない、横道に逸れず、自分から進んで
技術等を取得して、人としても成長してもらわなければ
プラコーの将来に明るい希望は無い。
10年後のプラコーは如何あるべきか
従業員は各個人の責任として捉えて頂きたい。
【品質保証部】
クレーム等のトラブル発生時の客先への対策書作成の
後始末は
後ろ向きの品質保証であり原料の仕入れから客先納品後まで
トラブルを未然に防ぐ事は前向きな品質保証である。
今後プラコーでは工程内の異常トラブルを未然に防ぐ
プラコー全社的な品質保証が求められ
結果としてプラコー内のロスを防ぎ、客先の信用を勝ち取る事が出来る。
【管理部】
女であるから、若いから、外国人だからと社会的に許されるものでは無い、全て言訳である。
今の経済情勢はその様な甘えの上には立っていない。
守攻の守は今プラコー全体に一番重要な事であり、女性の多い管理部では女性の一番得意
な部分でもある。しっかり守の部分で力を発揮していただきたい。
【PLN】
全てが始まりである。物事が全て整っている訳ではない(逆に無いものだらけである)。
最低限、各社員がサラリーマン根性を棄てて、創業者の意識を持って取り組まないと成功は
無理である。新規一転、0からのスタートで取り組んでいただきたい。
売上げ目標
昨年末からの仕事量の激減から、会社規模縮小を行い売上げに見合った経営が求められるが
現在見極め中である。
この先、我々製造業者の中での下請け業社は、しばらく不安定要素が大きすぎる
日々の努力と毎月の売上げに見合った、その場に応じた経営を押し進めていく事が重要である。
問題は会社トップが、いかに現状に合った経営でコントロールを行えるかが重要である。
この様な経営を行うことは、会社トップの責任が重要である。
第15期前半は、売上げ目標を設定はしない。
売上げに見合った経営に徹し、その時々の的確な状況判断を行った上での見極めを確実に行い
先々の経営につないで行く。
株式会社プラコー 代表取締役上坂敏志夫
【PLT】 (半期)
日本同様、厳しい情勢にあり、後半(期後半)は多少回復傾向にあるが、急激な回復は望めない
現在の状況下での安易な拡大路線は慎まなければ成らない。
今すべき事は確実な利益確保の為に、 『守攻』の 『守』を理解し
今後確実に成長していく為の足場固をしっかり行い、 『守攻』 の『攻』に備えなければ成らない。
【PKT】 (半期)
鋳物業界は他の業界同様に落ち込みは大であり、鋳物工場全体での設備投資は極端に少ない
今PKTのテーマとして立ち上がってきている、AWBプロセスを今後も育て上げ将来に結びつけて
行かなければならない。
またPKTは商社として鋳物業界のPKTがこれまで取り組みの無かった部分も取り組み、商社
活動の幅も広げて売上げ確保をしなければ成らない。
2009.05.23
今月20日、当社のタイ工場の責任者(工場長)のお父さんが亡くなられました。
6年半前に当人がタイ工場着任以前から、お父さんは身体を壊されておられ
それでも最近まで家業のうどん屋さんを経営されておられました。
私も昔(20年位前)に、当人の家に行ってお父さんにお会いした事があり
自分の息子の事を、幸治君と呼んでおられた事が印象に残っています。
(幸治君と呼ぶ事で自分の子供であっても、息子を人として認めていると感じました)
その後、私が独立し、タイランドにも工場を持つようになり、再び私との縁があって
プラコータイ工場に責任者として6年半前に着任し半年位後の?
6年前からお父さんの身体の状態を聞いておりました。
当人も日本に帰って来るたびに、お父さんに会うのはこれで最後かも知れないと
日本に帰国しタイに戻る際、その度に覚悟を決めてタイに戻って勤務をしておりました。
それが今年に入り容態が思わしくなく入院され、3月頃には、お兄さんからも
お父さんの容態が悪く、見舞いに一度帰国するようにとの連絡が来ていたそうです。
(お兄さんも、海上保安庁に勤務されており、全国を周期的に転勤されている)
先月の4月30日に親戚の結婚式の為に日本へ帰国して、お父さんと対面したそうですが
もう末期症状で意識もハッキリしていない状態であったと報告を受けておりましたが
とうとう今月の5月20日夕方に息を引き取られました。
結局、親の死に目に会えなかったことに成ります。
当人は家族を連れて慌しく帰国、その当日の6時間後には、お通夜、そして翌日葬儀と
ただ慌しいだけの中で父親を最後に見送る事に成ってしまいました。
今から9年前
始めてタイランドにPKTテクノを立ち上げ、それから1年位経った時にも
当時、単身タイに乗り込みPKTテクノを立ち上げ現在は現地の代表をしている
責任者のお母さんが急に無く成られ、当時も今回と同じく
当人はタイランドにおり実の母親を最後に見送る事が出来ませんでした。
9年前のPKTテクノの責任者のお母さん、そして今回のプラコータイの責任者のお父さん。
当人達は海外生活+海外で勤務しており、簡単に日本に帰って来れるものでも無く
本人達の、その場での帰国希望等の要求があった訳では一切ありませんが
最後の場に立ち会わせる事が出来ませんでした。
本人も納得して居り、仕方の無い事かも知れませんが、、、、、
やはり私は、会社代表責任者として罪の意識に駆られます。
当人らは海外で、自分に納得させて意識だけは私以上であると思います。
私は
規模は小さいですが会社を経営しており、尚且つタイランドという海外にも会社を持っています。
そして海外である、タイランドに日本人従業員を日本から送り込み、勤務をして貰っています。
私は小さい時から
親の死に目には私が枕元にいて見送ってやるものだと思っておりました。
それが出来ないという事は、昔は親不孝者であると教えられて育ちました。
しかし現在の私の状況は自分の部下に それを、させてやる事が出来ない以上
私自身も自分の親に確約できない。
私は現在88歳の父と83歳の母が実家におります。
母はもともと身体が弱く、私の小学校の頃から30歳近くの年まで心臓を患って入退院を
繰り返しておりました。
今は、20年以上前に身体にペースメーカーを入れてから元気にやっていますが
年少の頃から、母が心臓病という重い病である以上は親の死と言うものを意識した事が
何度かありました。
(幼い時、初めて母の病気の重大さが知った時は一人で泣きました)
そして数年前から父が老齢から病院に入ったままになっており、私が見舞いに行っても
ただ、目をパチパチさせて私を見るだけで息子である事を理解しているのか???
よく判りません。
私の父は私が生まれる15年位前?、戦争当時に海軍のそれなりの学校を卒業して
戦争終了まで沈まなかった事で有名な軍艦:利根を終戦まで守りぬいた事を誇りに
したバリバリの元海軍軍人でしたが、、、、、、、
現在ベットに横たわっているだけの姿は見ていて情けない様にも感じます。
昨年の正月に実家に年頭の挨拶に行った際に私の兄は兄弟3人を集めて病院から
先々、何があるか分からないので、もしもの時の覚悟をして置いてほしいとの事。
そして、兄から「何かあった時の事を各自心の準備をしておいてくれ」との事でした。
私は自分の社員を海外に送り込んでおり
送り込んだ社員に対し、最後の親の死に目に会わせる事が保障出来ない状態でいる。
部下にその様な状況で仕事をさせておいて、私だけ充分な事を言う訳にはいかない。
いざと云う時
その時の判断は、実の母親に預け後々文句は言わない。と云う事にしてあります。
他
昔、タイランドにて日本から当時の通産省の技術派遣団(JODC)の会長をされていた方は
それまで私がタイランドを訪問した際、日曜日にはゴルフをご一緒させて頂いていた方で
非常に温厚で好い方でした。
それが、今から5年前の64歳位でタイランドにおいて脳溢血で倒れられました。
その際、私もたまたまタイランドにおり病院に駆けつけました。
その方は、それまで通産省からタイランドの田舎にある、タイ人ローカル会社に在籍され
日本人はその方一人だけで回りは全てタイ人でした、日によっては日本人に全く会わない
生活をされておられました。
タイ人の世話役の会社スタッフの方も突然の事で、どう対応してよいか分からない
2日程して日本から奥さんが駆けつけられ、3ヶ月程で何とか口もきけるまでに回復されて
何とか日本へ帰国されました。
3年ほど前に出張で三重県に行き桑名市の自宅を訪問して、久しぶりにお会いして来ました。
その時は自宅で車椅子の生活をしておられました。
タイでの日焼けも無くなり白顔でしたが元気そうで、タイでの生活とゴルフを懐かしく語られて
リハビリをして良くなったら、もう一度タイに行たい、その為に毎日頑張っているとの事。
「その時は、私も御一緒しますよ 」 と答えて家を後にしました。
私はその一件以来
人生、自分は大丈夫だと思っていても、先に何があるか判らない。
タイに派遣した、私より10歳年上(当時59歳)の社員も何時何時何があるか判らない。
何かあった時、その時は海外に送り込んだ、私の責任であると思い。
「倒れる時は、日本の畳の上で倒れてくれ」 と冗談交じりに伝えました。
その際に当人から
自分の身に何かあっても、、、それは社長の責任とは思わないでほしい。
自分は、自分から売り込んで、自分からタイの国へ、自分の意思で乗り込んだ
自分が初めてタイに着任する際に
自分は、もう日本の畳の上で倒れる事は無いかもしれない。
それを、自分の家族(女房+子供)に言い聞かせてタイランドのビジネスをスタートさせた。
これは
自分の意思であり、責任であり、社長が責任を感じる部分では無い。と私に言いました。
私は
タイのビジネスのスタート時に日本から送り込んだ社員の強い意志を始めて見せ付けられ
それまで私の持ち合せていない、ヤマト魂を見せ付けられた思いがして心が打たれました。
私はそれまで、社長としてタイランド進出をいかに安易に考えていたか?
社長から、ハッキリとした展望も打出さずにタイランドに単身赴任させておきながら
当人の不退転の志に心を打たれ。
日本人の心の奥に秘めた根性(思想的)を平然と見せ付けられた思いでした。
これは日本でのんびりサラリーマンをやっていても此処までの強い意志は出て来ない。
特殊な海外勤務だからであり、自分自身を追い込んだ環境に行かないと言えない事です。
私も素直に、彼のヤマト魂を見習なければいけないと思いました。
その頃から
日本人の内面的な思想的部分(大和魂 等)で海外から日本を意識する様になり。
内容はかなり違いますが、私が20歳位の時、それも何と無く書店で買った本で
草柳大造の「特攻の思想」という本を思い出しました。
特攻隊員の家族への最後の別れ。
戦争の専門家が散っていなくなり、戦術も立てられない状態の中で
戦争に勝つ為では無い、日本の国を残す為に散って行った人達がいます。
良い悪いとは別の次元の、明日の日本という国を守る為の最後の戦術でした。
立案、指揮を取られた方は終戦2日後?
一言の言訳もせず、無言のまま、最後に一人散っていかれました。
(美意識に飾られすぎかもしれませんが)
この行為を犬死と伝える人もいますが、 私はその様に思いたくありません。
私が個人的に重んじる 義 という言葉、これも日本人の義なのだと思います。
しかし私は、変な右翼的な崇拝者ではありません (絶対に勘違いしないで下さい)
今回、当方海外従業員のお父さんが亡くなられ、その延長線で
私の実家の父の昔の事を書込んで話を進めて行ったら、話がこんな処にたどり着きました。
言訳がましいですが、人に強要するものではない書き込んでいくと話がこうなっただけです。
当方
タイランドの日本人幹部社員は海外で日本を意識して仕事をしている。
その、幹部社員は日本人であり、心は日本男児です。
その、幹部社員は日本人の誇りと、日本人の心である 大和魂 を意識している。
それは、日本を出て海外ビジネスを行う上で、外国人の中で孤軍奮闘しなければならない。
それは、意識や感覚等も全然違う中で、苦しみや辛い時の心の支えとして尚更言える事です。
だから、各幹部社員は日本人の心と日本人の誇りである大和魂を持ち続けたいと思うのです。
海外でビジネスを行い、血の滲む苦労して初めて理解出来る海外駐在員の心の支えなのです。
残念ですが。
現在の若い日本人は、ヤマト魂を頭に鉢巻にする事しか理解出来ない。
私も、日本人です。
私も、現在海外ビジネスを行う際に、大きなものでは無いかも知れませんが
日本を意識し、日本人である事を意識して、大和魂を意識しております。
それを、数年前から日本にいても意識する様になりました。
それは、頭に鉢巻をするのとは訳が違います。
私は、自分自身の心に鉢巻を、巻き締める様に成りました。
(最後の部分で話が堅くなりました。この様な話で不適切な言葉、内容があればご容赦下さい)
最後に
改めて、今回亡くなられた、PLT(プラコータイ)責任者のお父さんに合掌 致します。
2009.05.17
独立当初(1992年)から,休日でも暇になれば会社に来ています。
今日もそうですが、何をする訳でも無いのですが何となく落ち着きます。
独立当初の1992年春(もう独立17年です)
世の中バブルがはじけて二番底がどうのという時期でした。
私も会社を辞めたは良かったが、やはり元々サラリーマンであり
水飲み百姓の小倅は世の中の厳しさを理解しておりませんでした。
会社を辞める際には
サラリーマン時代の元社長と何度か話し合いを行い最後に
「やってみて駄目だったら、また戻って来い」 と言われ
力付けられたのか?馬鹿なやつと思われ最後の労わりなのか??分かりませんが、、、
(数年前にサラリーマン時代の元社長に確認しましたが、もう忘れてしまってました)
馬鹿正直にサラリーマンをやってて、会社を辞めたは良かったが、、、、、
先々の仕事の当ても無く
サラリーマン時代に唯一口座のあった銀行に相談してもまともに相手にして貰えず
別途、国民金融公庫から何とか資金を借り、国民金融公庫担当の方から
最後に「何があっても頑張ってください」と励まされ
工場(小さな小屋)の稼動準備と営業活動に走り回りましたが、、、厳しいの一言
本当に工場の稼動前から世の中の厳しさを実感させられたものでした。
どんどん当時の愚痴になって来ましたが、それだけ当時の世の中は厳しく苦しかったです。
今でも創業当初の、マイナスを全部背負った様な、あの時のあの思いは忘れられません。
工場稼動させても、スタート時にバブル崩壊のどん底で仕事量は少なく
バブル崩壊後の経済情勢の中で何か強烈な悲壮感さえ感じました。
その、どうしようもない苦しさの延長で仕事がある事の喜びを身にしみて感じ
個人時代の、初めの4年間(男=私一人)は不安でどうしようも無く
誰のせいでも無い、全て自分のとった行動であり責任は全て私にありました。
仕事がある事自体が喜びでしかなく (今の状況と同じです)
日曜、祭日、盆正月も関係なし年間、365日⇒360日は1日3~4時間の睡眠時間でした。
それでも不安で寝る前に布団の中でいろんな事を考えて寝ていました。
もう、10年以上前の昔話で自分の昔の苦労を自慢している様なものですが
結果的に独立当初の心細い、苦しい思いが今でも忘れられず、思いをそのままにして
現在の経営に結びついて来ています。
また、私が独立してからサラリーマン時代からの知人,そして独立後知り合った客先等
プラコーが個人創業から成長し、まだ半人前ですが今日に至るまでの過程で
今までどれだけの人に力に成って頂き、勇気付けられ、また助けて頂いたか、、、、、
この御恩は絶対に忘れるわけにはいかない、これは私自身の信義に関わる問題です。
また
どんなに利益が出ても、どんなに良い状態であっても一時のモノとしか捉えられない。
だから、どんなに良い状態であっても一時のモノであり、幻の様なものであり
先々が不安であるから、不安を少しでも取り除く為に何と無く休日でも会社に来てしまう。
ただ17年も経営に関り経験から (経営者として短いが激動?の17年でした)
良い時も一時なら、悪い時も一時にしなければならない。
良い時から学ぶものは余り無い。
悪い時と失敗からは学ぶものが山ほどあり、良き教科書であり良き教訓でもある。
失敗をそのまま受け止めてしまえば、自分の負けであり、自分自身への負けでもある。
今の自分は失敗の山を重ね、それを教訓に軌道修正をして何とか経営をしている。
この先も、失敗から学んで教訓にして、また学んで前に進んで行かなければならない。
若い頃、勉強をしなかった事を、反省して、、報いとして、、、教訓として、、、、学んで、、、、、
経営に関わっている以上は、常にバージョンアップして、、、、、、
たとえ私が熟年に成っても (すみません、もう完全な熟年でした)
プラコーという会社は、男子社員が年齢的にも、ほぼ30歳以下の社員構成であり
私を含め現社員共々(私+1名+1名(中年見習い)=熟年)まだまだ未熟であることを自覚し
(私は中途半端に自分勝手に出来上り、守りに入った成長しない人間には魅力を感じません)
(プラコーで言えば、社長がまだまだ中途半端なのに勝手に出来上がるな!。という事です)
若いという事はこの先も、人として、技術者としての成長の可能性は有る(本人次第ですが)
成長の可能性を現社員と共有して、今後も成長し続けて行く上で心掛け無くてはいけないのは
高い意識と、素直な心と、新鮮な目で物事を捉えて、しっかりと勉強し自分のものとし習得して
実行力を持って、前向きに進んでいかなければならないと言う事ですが、、、、、、、、、、、、、、
繰り返しの様な事を述べますが
私は創業当初からバックがおらず、これまで甘えが許されない状態で進めてきました。
私は年齢に関係なく、男女も問わず。 自立していない、社会的責任を果たさず、貴方任せの
ただ甘えてくる人間は、どうしょうも無く好きには成れません。
結論として、今後プラコーを成長させて行く意味で必要な事は
プラコー全社員(年齢、男女を問ず)の「 心.技.体 」をバランスよく育てて行くかポイントと成ります。
話は逸れてしまい、 私の安らぎ とは、縁遠い話に成ってしまいましたが
ナンヤカンヤと表向きは愚痴りながらも、これまで前向きに物事を進める事が出来た。
私は本当に幸せ者と言える、しかし幸せ者との思い込みの中で埋もれてしまってはいけない。
以上、私の今日の休日出社にて、私に対する総括でした。
2009.05.12
今回新たに ㈱プラコータイ工場(PLAKO THAI CO.,LTD)のホームページを作成しました。
これで、プラコーG 3社のホームページが出揃いました。今後共、皆様には
㈱プラコー. ㈱PKTテクノ. PLAKO THAI CO.,LTD.3社の成長を末永く御声援頂きまして
ご期待に沿える様、進めて参りたいと思いますのでよろしくお願い申し上げます。
2009.05.11
ブログについて
これで2回、上坂日記(ブログ)に書き込みをしました。
これまでの感想として
誰でも目を通すことが出来、公と成るブログ(特に会社HP上のブログ)はかなり緊張します。
まず、日本人でありながら私の語学力(富山の一部地方の方言混じりと漢字等の能力)
公の場で公表するのであれば、もう少し勉強をしておくべきでした。
それと内容です
硬い話を載せてみても面白くも無い。反対にやわらかすぎると⇒あくまで会社のHP上の
ブログです。
結果として真ん中狙いで行くしかないという事です。
正し、日頃思っている事を公の場に出す以上は私自身が整理しなければいけない
その為に自分自身の考えなりが整理できる、
これはいい事だと思います、、
ただ何事も独り言みたいな印象があり寂しい気もしますが、、、
書き込みをすることは自分がどれだけ冷静でいられるかという事にも成ります。
今後も書き込みをするにあたり、直接の仕事の話はなるべく避けたいので、たまに脱線
もするかも知れませんがご容赦下さい。
2009.04.27
これまでタイランドの政治情勢について余り興味がありませんでしたが、、、、、
遅ればせながら一言?言わせて貰います。
黄組(反タクシン派)やら 赤組(タクシン派)やら最後に青(シリキット派?)+黒組(パタヤ派)?
(ユニホーム?=チームカラーの様で識別は単純で分かりやすいのですが、)、、、、、、
私は、、、、もう、うんざりしてます。
まず、昨年の11月末からの黄組による空港閉鎖
私はたまたま、その前日にタイを出国し、何とか難を逃れる事が出来ました。
私の知り合いは12月10日近くまで日本に帰国出来ませんでした。
そして今回(4月)、私は非常事態宣言の発動日までタイに居りましたが、、、、、、
パタヤでのASEAN+3国(日本+中国+韓国)首脳会議が
今度は赤組(タクシン派)の妨害により途中で中止 (こんな事アリ?? です)
翌日は、タイ首相(アシピット)の車がデモ隊によりメッタ打ちされ ⇒非常事態宣言発動
⇒翌日、軍隊によりデモ隊排除、、、、、中途半端にひとまず終了。。。ひとまず、、です。
微笑みの国タイランドが、偽りの微笑みの国に成ってしまいました。
私もタイランドに愛想が尽きた、、、、ダラブツ( 富山弁で馬鹿者、という意味)。
昨年11月末から約10日間、どうしてタイ警察+軍= タイ国家はイエロー軍団(反タクシン派)
に空港閉鎖を許したのか?
その、空港閉鎖を許した為に
昨年末からの、急激な景気減速により、日系工場等でリストラ反対、ボーナス闘争等の
ストライキ多発。 日本の新聞、テレビにも取り上げられました。
ストライキの延長線で、ストライキ部隊は空港閉鎖での国の黙認から、
何をやっても 警察+軍=タイ国家は動かない ⇒自分達も何をしても大丈夫だと判断
当方の工場近くの、高速道路+一般道( 片側8車線)の産業メイン道路も、
ストライキを起こした連中は、
空港閉鎖が許されるのならと、今度は会社制服部隊によって完全道路閉鎖をしてしまう。
(こんな行為も許される =ホンマ何でも御座れの国です)
当方は関係ないのに道路閉鎖されて
当方の工場の周りは大渋滞、通常1時間で行ける所が6時間掛かる始末。
こんな事をしても、警察もまともに動かない(日本では絶対考えられない)
警察は袖の下を集める事を仕事にしているのか?⇒(かなり、、、、、、⇒そうです)
法とか秩序はどうなっているのか?? 疑問に感じ怒り心頭です。
(申し訳ありません。経営に関わる事なので、つい感情的に成りました、、、以後、注意します)
そして今度は
赤組(タクシン派)によるASEAN会議妨害⇒会議中止
各国の首脳が集まった会議に軍隊も警察も動かずただ見ているだけ、、ナンじゃコリャ、、です。
(また感情的になり 不適切な言葉を使って降ります、、申し訳ありません)
これは、もうタイの国が秩序の無い国である事を世界に認めさせたようなものです。
私が10年前に微笑みの国タイランドに夢描いて進出した事がナンだったのか?
またまた、怒り心頭です ⇒失望です。
軍隊が出動し行動した
4月13日は、タイの正月(ソングラン)で平和に水掛祭等が行われるはずでした。
タイランドでソングランの間は、全国的にやっていますが
バンコクの当方事務所近のシーロム通り、がもっとも盛んに行われ
当日は、水をかけられても怒る事は禁止です
私も容赦なく、バケツで一気に水を掛けられ覚悟を決めて
近くの露天で、水鉄砲を買って、バケツを持ち出して(所有者?=不明)
そして、何万人?の群衆の中に(気分だけは、、、殴り込み) 入り
タイ人 +白人 +黒人 +インディア +チャイナ +コーリア +日本人、国籍問わず
(バンコクは世界中の国民がアジア地区でもっとも多く、集まっていると思います)
男(オカマ)女も、関係無しに、 本当に、人類皆兄弟です。
人種を超えて本当に童心にかえり誰とは関係なく水を掛け合い気分爽快でした。。
ただ帰り道
ビシャ濡れでタクシーに乗せてもらえず、仕方なく、トボトボ歩いて帰りました。
それでも本当に、この世界に、こんな平和な国があるのか、と実感したものでした。
話は戻り。
私たちの、日本の様に法と秩序が、ある程度整った国民から見ると、どうして?
という気持ちに成るのかも知れません。
中国チベット問題、ミャンマーの軍事政権、北朝鮮問題等(なんか国際的に成りましたが)
私たち日本人の素朴な正義感からはどう見ても、、、、悪です。
私たち日本人の正義感では明らかに、矛盾しており理解できないものが多々あります。
私たち日本人は言論も自由であり、幸せな国民であり感謝しなければならない、、
と思うのですが、、、
逆に平和すぎて、矛盾した事への抵抗力が無く、不合理な事への対応が出来ない。
私達、日本人は
矛盾した悪に対抗するだけの力を持ち合わせていない国民であると
これまで毎月タイ+台湾+中国+インドネシア等の海外に渡航して感じています。
今後も海外新興諸国と日本の製造業は、明らかに競争して行かなければなりません。
私達、日本の製造業は物価の安い新興国と強制的に、競争させられ苦しい立場にあり
私の使命は、会社を残し人材を育成し成長を止めてはいけない(少しだけ ()ィィです)
競争に勝ち抜くには矛盾した事でも、日系企業である誇りを持って
矛盾をどう跳ね返し、前向きに事を進めるのかがポイントに成ります。
(場合によっては日系企業の誇りが足を引っ張るかも知れません)
いずれにしても、海外では最低限は日本人の理屈に合わないことも受け入れた後
どう跳ね返すのか、毒を毒で制すだけの器量が必要です。
これも今後、勉強していかなければならない、しかし心優しい私には大変です。
最近ビジネスを大きくするほど私から笑顔が無くなって来ている( 実感してます)
(小さい頃はいつもニコニコ愛想の良い坊ちゃんでした。今の私からして気持ち悪いですが、、
私にもそんな時代がありました)
変な落ちを作りましたが、今後も気をつけて頑張って行きたいと思います。