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2011.03.04

(株)プラコー開業19年

 プラコー開業19年
今月で(株)プラコー開業19年となります。
19年前の3月7日(先勝)に成形機を入れて
3月19日(大安)から稼働しました。
これまで何度も申し上げていますが
バブルが弾けて1年後の2番底がどうのと
云われた時期でした。
これまでの私の19年間は
1年目~4年目
男性は私一人 +パートが数名
プラスチックの仕事は24時間稼働です
3台でスタートして4年目に成ると8台を一人で見て
日曜も含め睡眠時間は1日3~4時間程でしたが
何時、落ちるか不安で無我夢中でした。
4年目に現在の工場を建てて
有限会社プラコーを設立
初めて男子社員を入れて男子社員を養う為
4台増設しました。
それから3年(独立7年目)
私にとっては専門外の業界でしたが
私を頼ってきた人間を世話する事で
PKTテクノを設立してタイに事務所設置
私はタイに通いながら
本業のプラコータイ工場設立の見極めから
設立準備に入りました。
同時期
台湾企業との取引開始(後5年間位取引)。
それから3年(独立10年目)
プラコータイ設立(稼働)
スタートまでタイ現地の日系企業に
当方のタイ人を預けて指導して貰い
見極めを付けての稼働開始でした。
借地にてプラコータイの稼働開始。

それから3~4年(独立14年目)
現在の南砺工場取得(数年は倉庫として貸出)
会社組織変更(有限会社⇒株式会社へと増資)
ISO9001の取得
高岡本社の増築。
会社設立10年、法人会社としての整理の時期でした。
それから3年(独立17年目)
南砺工場稼働
リーマンショックの急激な落込み
2月が最大の落込みで 3月流れが変わり多少上昇
(リーマンショック前の80%位のダウン)
⇒4月10日頃に南砺工場稼働を意志決定 ⇒設備手配
約4か月間、面接を繰り返し社員の増員=約30名増員
(4月売上り上げ=リーマンショック前の35%で上がり基調)

南砺工場稼働判断
普通、リーマンショック後直ぐに、、普通この様な判断はしない
これは
お客様からの情報と、その会社と、その会社の人を見せて頂き
オーナー社長としての私の独断の判断でした。
急激に落ち会社整理後、直ぐ急激な立上げで社員の大幅な増員
とにかくバタバタして人の出入りも多く、その中で
無知の新人相手に従来の社員も良くやってくれたと思います。
以上
それから3年、、、、、と云う事で
3年周期(3年計画?)で物事を進めて来た事になり
私は、休む暇が無く前向きに進めて来た事に成ります。
この後
直ぐに3年周期が待っている事にも成りますが
19年間、私の中に3年周期が使命の様に固定化された
リズムの様に成っていて怖さと草臥れも感じます。
私の中に会社を守る為とはいえ
ここ数年、自分の中での横暴さと荒さを感じていました。
それを、タイの責任者に伝えると
『 社長は見方により勝ち馴れしているのでないか 』
との指摘
私も最近、今の時代が時代だけに
会社を引っ張っていく上で、仕方無いと思いつつも
自分で、それを感じて自分に怖さを感じていました。
是までの調子で行くと危険である事も承知しています。
見方に選っては
今の社会的状況で許されるのであれば
此処で立ち止り充分考える事も必要であると感じますが
現在から未来にかけて
時代の移り変わりが早すぎて、その様な訳にも行きません。
有限会社プラコーを作り3年目
タイ進出して工場検討の際に
現地の人からは、タイで工場を作るのあれば
日本の工場を捨てなさい、と大方の方に言われました。
私としては
有限会社設立3年のヒヨコ状態の中途半端な会社
私の中に大義名分は無く、そんな訳には行かない
タイで工場を作るのであれば
私の使命として
会社設立して数年(3年)の資金力も無い会社でしたが
日本のプラコーも同時に伸ばして行く事が
私の使命と責任であると思って両方進めて来ました。
その為
私の中では、大企業の様な膨大な資金投入が出来ず
歳月を掛けた小さな資金の積上式の設備投資しか出来ず
タイと日本の両方の中途半端さは感じながら進めて来ました。
また
是まで、私は寝ても覚めても仕事の事ばかり頭の中にあり
家庭と友人等、社会的な付き合いも抑えて来たのも事実で
自分を人として見た時、自分に対する疑問を感じてしまいます
しかし、だからと私は立ち止まる訳に行きません
会社社長では無く
人としての判断の中に辛い局面は本当に多々ありましたが
経営者として
会社を伸ばすことが責務と自分に言い聞かせて来ました。
この先、少しでも前向きに進めて自分に与えられた使命を
果たして行かなければ成りませんが
最近の私
考えすぎてボッとした日々が多くなり何もしていない状態
仕事 私生活 遊び等の区別が無く、日々何の進歩もない
もっとメリハリのある日々が必要と感じます。
来年は操業20周年と成ります。
現実、厳しい世の中ですが
少しでも良い状態で迎えられたらと思います。

2011.02.09

卒業生、追出しコンサート

 卒業生、追出しコンサート
今年3月に大学卒業予定?の息子が
≪ 卒業生、追出しコンサート ≫
との名目で
4年間の学生生活の最後(予定)
この先、息子が就職してしまえば
この様な機会も無くなり学生生活
最後のライブコンサートと成ります。
今回
東京にいる上の息子も駆けつけ家族4人で
大阪梅田のライブハウスに行きました。
息子は、これまで学内の
軽音楽クラブに所属しており
上の息子も高校時代から
ベースをやっていた影響で
高校時代から多少ベースをしていた事は
私も知っていました。
(下の娘も一時ベースをいじってました)
昨年秋
今回のラストライブを見る事が出来無かったら
一度も息子の晴れの姿を見る事は無いと思い
時間を作って大学生活最後の学園祭を
娘も連れて3人で見に行って
学園祭での校内ライブで初めて息子の
ベースを弾いている姿を見ました。
私が言うのも何ですが、、
本格的でカッコ良かったと思います。
その時、分かったのですがクラブ員50名程で
その中で各自自分の気に入った所属グループを
3人~7人位でハードからソフトまで
10グループ以上はあったと思いますが
グループ毎に特徴を持ったバンドを作り
息子も5グループ位のバンドの中でベースを
担当していました。
そして今回の最後ののライブで
私が一番印象に残ったのは
卒業後プロの道に進むドラム担当とギター担当
+ 息子のベースでの3人だけの演奏は
かなり本格的でライブ会場も200名程でしたが
場内が一気に盛り上がって多少興奮気味
私も凄いと思いました。
私が今の年になって言うのも何ですが
青春は通り過ぎたら戻る事はありません
人生の中で限られた青春時代
出来る事を 出来る時に
社会人に成ってしまえば自由はききません
それでも出来る時に精一杯やって
出来る事を、出来る時に、後に成って後悔しない
と言っても
幾らやっても後悔をするのが人生だと思いますが
今は若いですから
少しでも許される範囲で後悔を後に回してでも
前向きな人生を送って貰いたい(◎○◎?同様?)
この後の人生も頑張って貰いたいと思います。

2011.01.11

2011年

 2011年
2011年の幕開けと成りました。
本年も、宜しくお願い致します。
とにかく今年は日本経済全体が
これまでに無い様な変化の年と成りそうな予感です
変化 =チャンスも隠れているかもしませんが
何に照準を合わせて良いのか判らない状態
自ら最良の判断をして 決めた事を確実に実行する
後々、後悔無き様にしなければ成らないと思います。
新年早々テレビ番組で
弱い日本を象徴する様な経済番組を多く見ました。
番組の中で
外国勢から日本に対する哀れみっぽい意見が多く
日本側からは、まだ日本には何々があると強がり
新年早々、明るい希望に満ちたとは行かない情勢です
ただ
新聞紙上では、今年後半は良くなるとの報道もあります
根拠は今一つ不明な部分もありますが
私らは何を見つめて、何に照準を合わせ何が出来るか?
そして結果が如何出るのか?、、、と云う事であり
兎年は飛躍の年でもあります
私も希望だけは見失わず進めて行きたいと思います。
昨年末にタイ訪問して
現地で付合いのある会計事務所を訪問し話を聞きました
この先の日本の空洞化問題
日本国内の空気と、受け入れ先であるタイ等の空気では
かなりの温度差があります。
政治を含め日本国内での感覚
危機意識が薄く本当に、これで良いのかと思います。
まぁ、私が日本を背負ってる訳でも何でも無いのですが
ただ私は
日本に製造会社を持ち
タイにも製造会社と工場設備商社を持っており
今の動きが目の前に生に見えてしまいます。
①日本空洞化⇒ ②海外生産検討⇒ ③海外工場受入れ設備 
⇒ ④海外生産  =日本空洞化が現実。
現在、大枠では上記③の段階にあり
今年後半辺りから日本の空洞化が進んで行き
これまでに無い様な現実と成るように感じます。
対策として
昨年は人先に海外の状態を見て悲観的な部分もありました
今年は当方も海外拠点の充実を図り備えて行き
日本を含め 総合的に変化とチャンスをじっと待つ
進め方により当社グループ全体ではチャンスであると思います。
今年、守りだけでは前進はありません。
慎重に、、、状況を見極めて場合により大胆に進めて行きたいと思います。

2010.11.13

私から見た日本と中国

 専門家でも何でも無い田舎人間ですが
これまで200回以上海外に行き
多少の外国人との付き合いの経験から物申す、、です。
最近,尖閣諸島の問題で日本と中国の関係が揉めていますが
尖閣諸島は日本の領土であり
国益からも絶対守らなければならない領土であると思いますが
歴史的背景から、ある程度も揉めるのは仕方ない
今回の騒動は先々の日中関係を考えた時
多少揉めて日本と中国双方の立場を主張し整理して
多少、ここで膿を出した方が良いと思います。
中国 反日デモ
5年ほど前の中国での反日デモの直ぐ後
取引き関係の有る会社の台湾人と上海で食事をした際
私から、第三者的意見として同行の台湾人2人に
『 どうして中国人は日本を嫌うのか? 』と台湾人に質問しました
その質問に台湾人は笑って
『 昔、台湾が日本の植民地時代、台湾には色々建設や産業の定着を行い
日本人は台湾に対し、全体的な建設をして貰い感謝してます
しかし
中国(大陸)には 破壊活動だけで建設はしていません。 』 と
そんな事も判らないのですか、、といった感じで笑われてしまい
私は
中国や海外から日本への見方が此処にある。。と感じさせられ
海外から日本を見た場合
私が、その様な質問する事自体が愚問と悟りました。
日本人は都合よく忘れていても海外での歴史の中に残っている
( 私は、戦後10年位経ってから生まれました )
( 私は、昔の日本の起こした戦争を知りません )
( 個人の私は、戦争責任は感じてはいません、、、殆どの日本人 )
それを日本人は
どんな理由があっても、中国から仕掛けた戦争では無く
日本の軍国主義の勝手な言い分で中国に進出し破壊活動を行い
中国人から見て、親、子供、友人等後を殺し、
人の心までも破壊し何の後始末はしない国、日本と云う事に成ります。  
戦争後の日本側からの事情として
戦後直ぐ冷戦時代となり、西側諸国に組する事で中国と国交断絶
ドイツと違い、中国側への戦後処理の対応ない状態で現在がある。
戦争当時の
人の心を踏み踏み躙っておいて、そのままと云う事に成ります。
(前々回、私のブログで父の事を書きました
【 戦争経験者は過去の戦争の多くを語らない、、、、】
国を守る為に戦争に参加し、結果として多くの人を犠牲にした
当事者の後悔の念から、、、、、、多々あるのかも知れません)
そして
ここ2~30年余り日本企業が中国に金を投入して工場建設
上目目線で中国人を雇用し
これだけの事を中国にしてやったと云った感覚の日本人は非常に多い
日本人は近年の投資により勝手な言い分ばかりを正当化している
日本人は 最近の30年以内の現状を見つめ
中国人は 70年~100年前の過去の歴史から日本を見ている
と言う事になる
これは、中国以外の国に対しても言える事です。
30年以上前の中国との国交回復の際
過去を振り返らない との話し合いがあったらしいのですが
日本人は都合良く、、、それを言い
中国人側からは、破壊された国土と 人の心と命は
そんな簡単なものでは無いと云う事に成り
当然の事で私ら日本人は
日本の責任を置き去りに中国共産党はもっと酷い事をしている、、、
言訳であり、中国に対する内政干渉の部分も有ります
日本人が言えば、、、昔の責任逃れの言葉とも言えます。
中国人の心の立場を理解すべきであると思いますが
賠償問題を全て受け入れると日本の国家予算は直ぐ無くなる
理屈を言うのは簡単、現実は厳しい、、、
批判だけは馬鹿でも出来るが、それを整理し解決は簡単に出来ない。
( 私の様に 、、、、、)と言うことです。
そして
私は、世界から見た日本を勝手に悟ってしまいました。
中国 
南京大虐殺
以前、中国から日本に嫁いで当社の社員と成った女性がいました
以前の反日デモ当時、彼女と反日デモについて話し合った時
『 社長は南京大虐殺を如何思いますか?』と質問を受けました。
私は
30万人以上の中国人が殺されたのは嘘である
当時、南京の人口14万人位で死体を埋めるのに穴を3~4個
掘って埋めたとあるが
1つの穴に対し、如何して10万人埋められるのか?
30万人分の骨等の発掘された話と証拠は聞いていない
ただ、それらしいことは事はあったと思う
しかし
30万人が駄目で1人ならOKと云う理屈は何処にも無い
人の命は1人でも人の命は命である。と答えました。
中国抗日戦争記念館
中国に幾つかあり、瀋陽の記念館は外から見た事がありますが
立派な大きな建物でした。
これまでの
中国国民の結束の要と成って、反日で国内結束を図る構図
中国も豊かになり情報も豊富と成って限界は有ると思います。
台湾 
忠烈詞
日本の靖国神社の様なものです
1900年代の初め、中国の辛亥革命の際の英霊に始まり
中国国民党(蒋介石)の対日交戦時代の英霊
中国国民党と中国共産党との内戦での英霊
特に目を引くのは、日本との交戦での英霊の忠烈士の 
『 壮絶死 』と言う言葉で 多くの英霊を紹介されており
日本人は忠烈詞に行って
守護兵の機敏な交代を観光スポットとして多くの日本人が
観光で訪問しています( 殆ど日本人です )
私は
3度目位の訪問で初めて展示物の内容を見てショックを受けました。
タイ 
カンチャナブリ
タイランドの西側の車で3時間位の観光名所で 
実話に基づいた映画 『 戦場に掛ける橋 』でタイ西部に実在します。
近くには、広大の土地に旧イギリス兵の墓地があり
カンチャブリの橋の袂に
旧日本兵のイギリス兵に対する残虐行為等を写真や人形を使って
展示してあります。
何故か?橋の向こうにも中国人犠牲者の石碑等がありますが
意味不明?な部分も有ります。
東南アジア等の近隣諸国現地での日本の紹介はこんなもんです。
予断ですが
旧日本軍はタイのカンチャナブリからの物資輸送ルートを作り
ビルマ(現ミャンマー)にから、インドのインパール辺りまで進出
(これが、昔の大日本帝国の西側最大進出?)
その後
インパール戦線で負けて、日本軍は急激に萎んで行き
ビルマ撤退の際の映画が日本映画で 『 ビルマの竪琴 』と成る。
(安易に勝ち進み、カンチャナブリ等での補給ルートを断ち切られた
=== 教訓です )
中国、韓国を含めた東南アジアからの日本
確かに、日本軍等の進出等により時代の変化が起きて
長年続いた、植民地時代からの脱却は出来たと思います。
しかし結果として日本は敗戦国となって
戦後、経済に力を入れて今日まで( 今日までとして置きます)の
力を付け経済大国に成ったと思いますが
昨日 までの繁栄だけで天狗に成っているとも言える。
現在 日本は後追いの新興国の中で埋もれようとしている。
明日 からの日本は近隣の開発国と新興国との同じ目線で
謙虚な姿勢で向き合って行かなければ成らないと思います。
*私は歴史の専門家ではありません、史実は間違っているかも知れません。
また
中国との関係では過去の暗い戦争時代を掘り下げないと、、、、
日本人の都合だけで、過去の臭い物に蓋をして話していても
過去の歴史があり、そして現在がある訳です
其処の辺りも考慮しなが友好関係を保つ様にすべきと思います。

2010.10.16

最近の景気 (2010年10月)

 最近の景気
一年前に比べ落ち着いて来ました。
当然、売上げも落ちて先々の不安もあります
最近、社内的にも少し落ち着き
同業者等の周りを見渡しても良い情報は殆ど無い
知り合いの経営者からも前向きな話も殆ど聞け無い
愚痴めいた言葉ばかり、、、、、、です。
私もそうですが、今の経営者は将来に悲観的に成ってしまう
まぁ
今の現状では仕方ないかも?守り以上の事が考えられ無い。
最近まで日本の景気が多少良いと言っても
中国等の新興国による景気の上向きに負んぶに抱っこ
本来の日本の自力景気では無い
中国と揉めても完全な白旗を振りながらの弱腰外交
田舎の下請けまで還元され無いままの景気の推移
当方は
昨年から最近まで前向きに進めてきたこと自体
良い客先に世話になっている事を実感させられます。
それでも現状、、先々も、、、
日本で製造業の空洞化が確実に進んでいます。
(製造業だけの問題では無い、日本経済全体に言える事だと思います)
① 最近の極端な円高により製造業の先の見込みが立てられない。
(今時の政治=国内重視の今の政治では如何にも成らない)
② 新興国が技術面でも成長し日本に負けない様な力を付けて
来ている。
(最近、当方の様な田舎の弱小企業にも中国企業から売り込みの 
メールが月3件位入って来ています)
③ 海外ブランド(韓国等)が国際市場を日本以上のシェアを持ち力を
付けて来ている。
日本ブランドの力のあった時代は良かったが、、、、、、
これまで、日本の製造業は恵まれすぎだったと思います
この先、日本ブランドだけに頼った製造業は??
(携帯電話の世界で日本メーカーは日本市場のみ見て来たが
サムソン等は世界市場を意識して製品開発を進めて来た事が
現在に至る最大の分岐点だと思います)
④ 新興国の景気に依存した、最近の他力本願的な日本の景気の非弱さ
日本は高齢化等で市場が狭まり仕方が無いかも知れませんが
③の事を考えると、これまでの方向性が違ってた事に成ると思います。
⑤  韓国や中国と、欧州や東南アジア等との諸外国とのFTA締結
日本は現在、国内農業を守る為まともなFTA締結が出来ていない
置き去り日本の製造業は海外現地での輸入関税がネックと成り
来年以降、日本国内製造業は落ちる可能性大、、、、
この先、私ら日本の製造業は、
このFTA問題が一番のネックと成ると思いますが、政治は動かない。
これまでの様な
国内にしか目が向かない保守的な日本の政治に対し
世界は、明らかに国ごとの国際社会での競争と成って行きますが
世界の中での日本の、FTA問題.法人税の問題.空洞化問題.円高等
これまでの政治では先送りだけで何も解決されていない
本当に待った無しの状態である筈ですが
私ら日本国民も、良き時代の延長線でしか物事が考えられない
ボケており、先々日本と言う国の埋没は避けられない様に感じます。
そこで
日本より先に自国の製造業の空洞化が進み
今の日本から見て先輩である、台湾企業はどうして来たのか?
11年前から数年間取引きを行い現在でも付き合いがある
携帯電話の電子部品関連の台湾製造会社で
今では、台湾の金型協会理事で台湾株式の上場企業でもある
台湾の社長に訪日の際に久しぶりにお会いしました。
その台湾企業とは
取引き当時、付き合いの中で学んだ事は
日本にしか無い、約束手形等の考え方の長所と欠点
日本と華僑的な償却についての考え方の違い等
自分なりに台湾華僑の経営手法を勝手に学んで
現在、プラコー経営に私なりにミックスして生かしています。
(当時、タイランドにて台湾華僑とも付合いをしていました)
台湾は昔から自国に資源が無く、自国に市場も少い
中国が開放路線を取っていく過程で
積極的にグローバル化を進めて中国(大陸)に進出して
現在、フォックスコンの様に中国最大の製造企業となっています。
日本メーカーは逆に何時までも島国根性的な閉鎖的考え方で
自国に多少の市場があった為に日本市場に重きを置いて来ました。
現在の日本メーカーは国際市場での競争に遅れを取ってしまい
弱電関係の国際市場では
韓国サムソン等に世界市場を奪われ遅れを取ってしまい
この先の日本ブランドの存在価値自体が危うくなっています。
これまで日本企業(メーカー)は日本市場を重視し
『 日本でヒットすれば海外でも売れる 』
国際市場を軽視し自惚れた勘違いをしてして来たと思います。
国際ユーザーの意向よりメーカー身勝手な商品作りの結果
国際市場での孤立を招き国際競争力をどんどん落としている。
私は、これまでタイランド訪問時
時々、現地デパートの電化製品売り場に行って
多少ですが世界の中での日本製品の実力(価値)を見てきました。
10年前の電化製品売り場(テレビ)は
パナソニックやソニーのテレビが単独の売り場ブースでした。
現在
サムソン、LG、フリップスが単独でのブースがありますが
上記、日本の2社は
5年以上前から、協同で一つの売り場ブースと成って
単独ではありません (それだけ売れていないと云う事です)
この現実があっても
日本人は一時の日本神話(ジャパニーズNO.1)?を
最近まで信じ続けて
国際市場の中での競争の遅れを現実として受け止め無い
(何が悪いのか?日本人は世界の中での日本を理解していない)
現在、国際市場の中で日本製品は孤立しつつある現実
そして
日本と云う国自体が、身勝手な発想(感覚)から孤立して行く現実
日本に昔からの伝統的な空想である神風的感覚を期待した
困った時の神頼み、、、、、でしか無い状態 (現実)であれば
この先、しばらく国際競争の中で日本は落ちて行く様に思います。
当社は昔
上記の台湾メーカーとも取引きの経験もありますが
いくら田舎の末端の下請け業であって
実行出来なくても、目線と方向性はグローバル化しか無い様です。
しかし、田舎の弱小企業が何が出来るのか全く解りません。
10年位前までは小企業であっても海外進出が盛んで
地元新聞にも○×企業が中国等に進出したとの記事を多く見ました。
しかし
現在、これだけ空洞化と言われながら
新聞記事に海外展開の記事が載っているのは
メーカーと大手企業ばかりで
中小企業の新たな進出記事は余り見かけません
新興国が力をつけて下請け的な製造業は地元で補える様に成り
今更
海外に出て、ノンビリと時間を掛けて育てて行く様な
日本からの新たな小規模の製造業等の進出の必要性が無くなった。
また
日本の中小企業の体力が落ちて海外まで手が出せない。
やはり
製造業の世界では新興国も力を付けて来ており
メーカーは海外の地元調達で済む様に成って来ている様に思います。
現在
当社のグループ会社がタイランドに2社あります
お陰様で活発に仕事をさせて頂いております。
特に鋳物工場設備関連商社である、タイPKTテクノは
今年7月に 代表者の若返り(36歳)を行い
35歳前後の社員が殆どで新規一転活発に受注活動を行い
タイランド国内の受注も好調ですが
最近目立つのは
インドネシアからの工場設備の受注が活発化しております
日本国内の空洞化が進み
皮肉な事に
その受け皿として海外での生産設備増強が進んでおり
しばらく、この状態が続きそうですが、、、、、、、
私は日本の製造会社の社長でもあります
今の日本の現状を捉えて、整理し先々を考えた時
当然、皮肉なものを感じながら、大きな不安を感じてしまいます。

2010.08.28

亡き父について

 

8月14日 朝8:46分、私の父が亡くなりました。
5年位前から入院した状態が続いて居り
この3年位は、私が面会に行っても
私を判っているのか?判らない状態でした
2週間位前から流動食も受け付け無い状態で
点滴のみで延命して居りましたが
8月14日の、お盆前日
人に迷惑を掛ける事を人一倍嫌った父は
病院内でも殆ど周りの人も気づかない
朝日が上った後に一人静かに黙って息を引き取りました
苦しんだ様子も無く、本当の大往生であったと思います。
私も長年の闘病生活と老衰が進んでおり覚悟はしておりました.
享年89歳でした。
本来、葬式は8月16日に行うものでしたが
お寺さんの住職が16日心臓の手術をされるとの事で
8月17日の葬儀となりました。
会社は8月14日~17日まで、お盆休みでしたが
私は当然ですが、お盆休中全て葬儀に関った事に成ります
お通夜、葬儀に出席頂いた方々には
せっかくの休みの中、足を運んで頂き申し訳なく思います。
私の父は第2次世界大戦中、自ら志願し
当時、海軍の上の学校を首席で卒業した筋金入りの職業軍人で
父が24歳の終戦時
軍艦 刀根の大砲の責任者らしき事をしていたらしいのですが
軍艦 刀根は
終戦間際まで沈む事無く 実戦が出来た最後の軍艦で
真珠湾攻撃でも機動部隊の中核として任務遂行し
ミッドウエー海戦でも敵の軍艦を撃沈させており
実績面で最も多くの実績を上げた軍艦で無かったかと思います。
戦後
元乗組員での組織=刀根会や、広島県に軍艦 刀根記念館があり
昔の戦争経験者世代の中では有名な軍艦らしく
軍艦 刀根を終戦まで守り抜いた事を誇りにしておりました。
海軍軍人として最後の任務は
戦後に成って小隊長として戦後処理を行い
戦勝国(アメリカ等)の指示で、軍艦利根を一部解体し和歌山沖?で
自爆させて沈めた事が最後の任務と聞いた覚えがあります。
見方を変えると
本人は相当、複雑な思いであったと思いますが
旧大日本帝国海軍の最後の軍艦を自ら沈め
旧大日本帝国海軍の最後の幕引きをした軍人の一人と言う事になります。
今の平和な時代であっても
私は元軍人の息子と言うことになります。
元軍人の父は、酒、タバコ他、パチンコ等の遊びは一切しない
ただただ、堅物で自分の人生に不器用な真面目人間でした。
私が独立時
商売の仕方も分からず独立し
独立後、半年位で運転資金が続かなく成りました。
その時、私の顔色を見て
『 お前から預かった金ここで返しておくわ 』と言って
通帳2通を私に差し出しました。
( 1通は私の名義、もう 1通は父の名義でした )
私は世間の厳しさ辛さ、そして苦しさと、親の気持ちに涙が止まらず
その金の一部遣わさせてもらい
現在でも、残った金は大切に残してあります。
その後も
私が実家を訪問した際、父から必ず出てくる言葉が
『 如何じゃ、忙がっすいかい 』、これが毎回の挨拶言葉で
私が毎回の事なので、面度臭く返事すると逆に安心していた様でした。
そして
大した工賃では無かったのですが
私の仕事の内職を母親と二人で10年余り
お金の事は一切言わず応援して助けて貰っていました。
現在の私、その様な親の裏での応援があって成り立っています。
また
戦争前の昭和14年位?のまだスキーが一般的で無い時代
中部日本の大会でスキージャンプ部門で優勝
スラローム(旧滑降)も上位であったと聞いていますが
父は、この様な事を自分から自慢して口にする事は無く
私が小さい時、家の屋根裏に古い競技用のスキー板があり
私が不思議に思って
父に聞いて初めて知り、その時の賞状も見せてくれました。
周りの人はともかく
私ら家族(私の兄弟等)すら、よく知りませんでした。
戦争が終り、自分の乗船していた最後に残った軍艦を
自ら沈める事で旧海軍の幕引きの任務を自らも果たし
それまでの
戦争 ⇒志願兵(職業軍人) ⇒極限の命がけの日々を送り
戦後、此れまでの張り詰めた気力が薄れ
自分の、それまでの人生に否定的部分があったのかも知れません。
その後
隠居した65歳位に成るまで遊び事は一切せず
隠居後、唯一地区の人たちとゲートボールを楽しんでいました。
これも今まで
遊びらしい事をしなかった人間がかなりのめりこんでいた様で
私も、それまで父の遊事は一切見たことが無く
当時、私がからかうと、  自分で照れくさそうに
何か悪い事をしている様な顔をして言訳めいた事を言ってました。
葬儀の際、喪主の私の兄が挨拶でも述べましたが
私ら家族の内には厳格で、外には反対に人一倍やさしく対応して
私は小さい時から
このギャップが如何にも理解出来ず父に反抗もしました。
しかし今
父の葬儀も終り、私が理解できるのは
やはり私の父は元軍人でした。
父は8月14日 朝8時46分に亡くなり
8月15日 お盆で終戦記念日です。
8月17日 葬儀を行い天国に行きました。
先祖は、お盆前の迎え火と共に帰ってきます。
迎え火と共に、父の昔の戦友も帰って来ました。
同じ海軍で戦死した父の兄も帰って来ました。
そして、亡くなった親や兄弟も帰って来たと思います。
終戦65年
私らは、知らない遠く過去の出来事かもしれません
時代が変わり、いくら風化しても
終戦記念日前日の、8月14日まで生きて守りぬいた事を
昔の戦友等は、皆誉めて労ってくれたと思います
戦死した戦友から、年老いた姿を見て からかわれたかも知れません。
そして8月17日葬儀
お盆空けの、送り火と共に
昔の戦友や親兄弟等と一緒に天国に行った事に成ります。
私ら家族の前でだけ見せていた厳格な父の姿
私ら家族の前では
自分の誇りである、軍人魂を棄てる事は出来なかった
やはり、旧大日本帝国海軍軍人であった。
戦争が終わっても、心の奥底に軍人魂を隠し残した人生であった
しかし戦争が終り
今の平和惚けした世の中と成って年齢と共に旧軍人も少なくなり
戦友や戦争経験者が居なくなればなる程
忘れられた、遠く暗い過去の物語と成って風化してしまい
戦争と 旧軍人は否定された様な存在となってしまった。
父の晩年の人生は、そんな人生だったと思います。
そして、酒、タバコ、娯楽等、一切しない不器用な人間の人生
父の幼い時から戦後までの自分の人生観から表面は隠しても
他の生き方が出来なかった一人の 人の 人生だったと思います。
父の死
私の年代の幼い頃の
父の強さと逞しさは誰でも理想として残っています。
そして
一般的に戦争経験者は次の世代に戦争の多くを語らない
私が幼い時から見てきた父の人生
父の死から( 8月14日 終戦記念日前日) 葬儀までの
父の人生の本当の幕引きまで
私が父の人生をまとめ上げるとしたら
旧軍人と整理する事で纏め上げる事が出来ると思います。
人生、ご苦労さまでした。
そして天国で落ち着いたら、元戦友と昔を大いに語って下さい。
亡き父の人生を考え
旧大日本帝国海軍 軍人に敬礼し、改めて合掌致します。

2010.07.31

富山県高等学校 校歌祭

 富山県高等学校、校歌祭
先日、富山県高等学校 校歌祭を見に行きました。
以前、息子が地元の高岡商業応援団の
復活初期の応援団長をしておりOBとして
校歌祭の世話係をするとの事で家族で見に行きました。
私は、この校歌祭を見るのは3度目ですが毎回感動します。
応援団というのは
その大会等で常に主役では無く 脇役的存在です
しかし高校生活の
最後の最後に校歌祭という催し物があって
脇役的存在が主役となって華となり幕を閉じる
私は、この下積みがあって最後に主役と成るといった
ストーリー的な流れが好きです。
最近の応援団、私の時代とかなり様変わりしており
昔からの番カラタイプの応援団は
富商(富山商業)位で
後の高校は今風に多少アレンジされて
リズム感がある様に感じます
また
昔であれば考えられませんが
女性の応援団長もいます
しかし、女性の応援団長も悪く在りません
息子の母校の高岡商業野球部は
此れまで何度も甲子園に出場しており
甲子園出場回数は
全国的にもかなり上位に位置する高校ですが
今年は初めて、女性の応援団長が誕生して
校歌祭にて最後に校歌を指揮する際には
本当に3年間の全てを出しきった。。。
私は当人と面識はありませんが
引退前に全てを出し切った姿が
私にも充分伝わり 私も感動で涙が出ました。
私の母校は
昨年、夏の大会で甲子園出場した富山県立福野高校です。
開校、約120年位の伝統校ですが
私の在学当時、バリバリの番カラタイプの応援団があり
入学して数日たった放課後に3日間位
新入生を全員集めて応援練習があったものです。
それが時代の流と共に応援団が無くなり
昨年、母校が甲子園出場を果たしましたが
甲子園での応援の風景を見ていても
即席の応援団で物足りないものを感じました。
応援団
奉仕の精神が無ければ出来無いかも知れません
今の世の中、人の為に物事をする、、、、、、少なくなりました
人の為に物事をする ⇔ その為に自分を磨き磨かれる
自ら物事(奉仕)をすることで
自分を磨き磨かれる。。。。中途半端な時代に重要な事だと思います。
そして
幾ら年を取っても青春時代の通過点である
自分の母校と云うものが存在し
年取った今でも
自分の母校の校歌を聞けば昔の青春時代を思い出します。
富山県高等学校 校歌祭
青春の1ページを忘れない為にも長く続けてほしいと思います。

2010.07.06

㈱プラコー  第16期スタート

 今月7月1日より
プラコー第16期がスタート致しました。
前期(第15期)は当方の南砺工場の8月新規立ち上げからスタート
し確かに売上げは上がりましたが
此れまでに無く慌しい、落ち着きの無い1年と成りました。
私も
今年3月辺りから精神的な疲れが溜まりギブアップ状態でした。
と申しますのも
此れまでの流れから言えば
景気の底から上がる際に、何処かの会社が先頭を走り
それに吊られて他の会社も引張られて行く形で全体に良くなって行く
当初プラコーが
その先頭的な役割が出来るとプライドの様なものを感じていました。
しかし現実は
人材の少ない中での工場立ち上げ ⇒ 何時までも落ち着かない。
他のプラスチック同業会社 ⇒ 何時までも良くならない。
そうしている間に、今年の春辺りから仕事量が落ちて来ました。
(落ちた処で我に返る形で落ち着いて周りの現実を見て、寒気を感じました)
先年7月に南砺工場立ち上げの花火を上げて何時までも不安定な中での
花火の灯が消えてしまう様な不安感を感じて如何にも成りませんでした。
そして今回、新しく第16期を迎えるに辺り
少し、此れまでの考え方を変えて行きたいと思います。
まず状況は
富山県の製造業は以前に比べて下請け的な要素が大きく成って来ている。
地元(富山県)にメーカーと言われる会社が少なくなり
表日本からの仕事を求める度合いが多く成って来ていると思います。
結果として
1次下請けから、表日本の同業的会社からの2次下請け化している。
その点
プラコーはもともと2次で来てますから、さほど問題は無いかも知れません。
もう一つの結果として
当方、海外拠点(タイ)の2社共( プラコータイ.タイPKTテクノ )
今回の世界経済の上昇と円高から海外生産が活発化し
今年の春辺りから急激に仕事量が上がって来ています。
しかし、日本の末端の地方の下請け製造業は、それ程でも無い
それだけ、日本国内から仕事が逃げて行っている事になります。
今時の
製造の海外流出と地方故の2次下請け的工賃での会社経営
私ら田舎の末端の下請け製造会社は経営が大変に成り
此れまでの、良き時代からの頭の中の切り替えが最も重要ですが
しかし、だからと何が出来? 如何進めて行くのか??
今現時点では、残念ながら答えが出せ無いのも現実です
日本経済全体が同じ様な環境で、たまたま私らが製造業であるだけで
業種問わず同じ様な環境にあると思います。
私が先々経営して、方向性を示し、進めていく上で一番の悩みとなります。
私も
バブル崩壊直後に独立して
日本最大の良き時代の後の極端な閉塞感からの不安ばかりが続き
バブル以前の良き時代の物の考え方を無視した形で
自分勝手な、自分なりの正論を求め
不安感から、常に求め続けながら今日まで走って来ました。
世の中の不安定さから、常に現状に満足せずに時代に逆らって
120%以上の無理をして求め続けてきた結果が現在のプラコーであると思います。
しかし、この先は
日本のバブル以前 ⇒バブル以降 ⇒そして今後の製造業の景気状況
バブル以降も日本の経済は、日本の技術力とブランド力での優位性があり
まだ光があったのかも知れませんが、この先が不安です。
最近、韓国のサムソン等に、日本の弱電メーカーが完全に追い抜かれてしまった
との報道等を頻繁に聞きます。
気づくのが遅すぎる( 日本人の感覚のズレと自惚れ以外何でも無い )
日本メーカーは
日本の市場と世界の市場を同一化しようとした様な自惚れ以外の何でも無い
(その国の人が何を求めているのかを無視、ジャパニーズNO.1と勘違いし
自惚れ品を、その国に押し付けていただけであったと思います)
私は、この10年余り、タイと台湾+中国に頻繁(150回以上)に行きました。
私は、7~8年前から、日本人は完全に自惚れと勘違いしており
リストラによる技術者の海外流出等を含め(技術=会社  +人が握っている)
海外から日本を見た時、誰でも気づく事で今の状態を想定していました。
日本人(日本メーカー)の
自惚れから隙が出来て、世界のブランドリーダーから突き落とされた事に成り
この先、今の日本人の過去の遺産(ブランド力+技術力)でしか物事を語れない
状態では、もう先が見えてしまいます。
今後、本当に日本の製造業等の時代を受け止めた会社運営が必要であると思います。
(以上、これは製造業だけの話だけでもありません、サービス業や他の業種も同じ
今後しばらく、日本に魅力がある間
外国資本(中国+韓国等)が技術力等を求めて日本に入って来る様に思います)。
今回
プラコー16期の経営方針は
和を持ったチームワーク
無理をする状況(時代)では無い足元を固めていく
人の協力と繫がりがあって初めて仕事は完成出来ます
それを先に結びつける様にすべきである。 
と致しました。
今期は、会社運営の基本中の基本
組織で仕事を行う基本中の基本。を整理し
社員を人として技術者として成長させて、後の時代の変化を見極め
その時代に、適切に対応出来る組織体への地固めを行いたいと思います。
そして私も
組織の中では一人の人間です。
会社トッブの力量に全て合わせると、会社はそれ以上伸びない。
会社トップは神様では無い、勘違いの延長線に会社が生き延びる保障は無い。
社長は部門事に
それぞれの専門分野を正道に地道に確実に伸ばす目と感覚が必要である。
以上を
私自身が戒めをもって、肝に銘じて今後の会社運営を行いたいと思います。
そしてプラコー社員
若い社員が多い
良き時代に生まれ、育てられ、与え続けられて育って来ています。
自ら求めて人生を力強く生き抜く術をあまり知りません
それだけ自立しておらず、競争意識も薄く力強さに欠ける
此れまでの良き時代に育てられた遺産であり、それが今の日本の現状です。
現在の国際競争の時代において劣ると言わざるを得ないと思います。
( すでに、こんな田舎の末端の下請け会社であっても国際競争の中にいる ) 
しかし
上記は別にして
自分の人生は、人それぞれ個人のものであり
自分の人生に、本当に最後に自分に責任をもてるのは自分しかいない
自分に本当にもっと責任を持つべきです。
そして
他人への小さな嘘は忘れてしまいます。
しかし
自分への嘘( 嘘、妥協、逃げ等 )
これが幾ら小さな嘘でも、、死ぬまで忘れる事が出来ないものです。
( 私もそうです、若い時代の自分への嘘を今でも思い出し反省する事多々あります)
自分への、人生に対する嘘からは、一生逃れる事は出来ない事を自覚すべきで
少しでも悔いの無い人生を送る様に、自分に嘘の無い責任ある人生を送る様
日々心掛けて精一杯の人生を送って貰いたいものです。
この先、しばらくは厳しい世の中と成るでしょう
ただ与えられる事を良しせず
甘えを棄てて、自らの責任で、自ら貪欲さを持って、自分から求め続けて
人として、社会人として、技術者として、総合的に人として成長し力強く
仕事と自分の人生の両立をして貰いたいと思います。
* しばらく休憩を加え落ち着いて、この先の製造業として将来を睦めて力を蓄える。
( いくら小さな会社であっても )。。。。。。。。 今回は重要と云う事に成ります。

2010.05.19

タイランド 2010年05月19日 情勢(デモ解散)

 タイランド 2010年05月19日 情勢
今日、早朝からタクシン派(赤服)デモ隊の一斉排除が始まり
午後なってデモ側(赤シャツ)がデモ解散を決定しました。
今日一日
如何なるのか推移を見ながらタイ側社員と連絡を取り合っていましたが
反政府側からデモ解散が決定されて取り合えず良かったです。
今日、TBSニュースで一番に入ってきた映像は
当方の タイ現地法人 
(タイ PKT テクノ CO.,LTD)の事務所ビル(タニヤ プラザビル)前から
軍の装甲車がデモ隊に向けて兵士と共にバンコク  
タニヤ通りからシーロム通りに出て行くところでした。
当方、事務所ビル前を映像で放映されており
当方、事務所ビル2階と3階部分からは
モノレール駅のサラデ-ン駅とも繫がっており
装甲車の上にサラデーン駅がハッキリと確認が取れ
私自身、限りなく現実的で身近に感じてしまいました。
早速、当方現地スタッフに電話で状態確認をしましたが。
日本とバンコクとの時差が2時間あります。
まだ、出勤途中の社員もおり
今日の朝一番からのデモ強制排除の情報を持たない社員もいて
事務所(タニヤプラザ)ビルには近づかない様に指示しました。
デモ鎮圧に最終局面を迎えて
死者も一時、100名を超えたとの誤情報もあり
当方、事務所周辺が完全に戦場となってしまいました。
当のタクシン元首相は
自分の家族を数日前にタイから出国させ
フランスのシャンデリゼ通りで
娘と買い物をしている写真も出回っていますが、、、、、、
当人(タクシン一家)はフランスでバカンス?
配下のタイ人は現地の戦場で命がけで戦っている?
これは何なんでしょうか?
タイは昔から階層社会の国と言われています
日本人は多少の小銭を持ってタイに行って休暇を楽しんでいますが
これも階層社会の延長での考え方なのかも知れません
タクシン本人の動き?不自然さを感じるのは私だけでは無いと思いますが
何はともあれデモの解散決定が出され、私としては一安心ですが
根本的な問題解決は一切されておらず
タクシン派の強硬派が逃走しています
今後もテロ的手段で裏に回り尾を引く可能性は充分あります
この先も幾ら自分が気を付けていても
テロ的活動をされたら、何処でどんな事故に出くわすか分かりません
まだ、この先も現地では充分注意が必要と思います。

2010.05.17

タイランド 2010年05月 17日 情勢

 タイランド 2010年05月17日 情勢
タイ、バンコクはタクシン派のデモで治安が日々悪化しています。
取り合えず今日(5月17日)と明日(18日)タイランドは
公共機関等はデモ(内乱)で休みと成りました。
今日の朝、現地責任者(タイPKTテクノ)からの報告で
当方の事務所(シーロム、タニヤプラザビル)も
今日と明日は全館入館禁止との事です。
今の状態では、当方現地社員が
いつ事務所(タニヤプラザビル)での仕事に復帰出来るのか不明で
毎日、バンコクのデモの状況をテレビニュースで放映されていますが
ほとんど
当方事務所の数百メートル付近の映像ですが
一昨日
ロケット砲が打ち込まれたテッシュタニホテルは
数年前、ミスユニバース世界大会の会場と成った
当方、事務所近く(直線で200m位)の有名なホテルです
最近のテレビでのバンコクの映像は私としても信じられない光景です。
また
軍隊が本格的に動いた事で
デモ隊側も押されて?他へ分散してきており
当方の日本人社員と家族の生活圏へ迫って来ています。
基本的には外出しない様に注意していますが
町の中を歩いていても何処で災難に出くわすか分からない状態です。
そして
タクシン派の超最強行派のカティヤ少将がなくなりました。
これまでもタクシン派のテロ活動の黒い幕に
カティヤ少将の名が何度も取り坐されていました。
今回のタクシン派(赤服)の中で黒服が暗躍していますが
かなりの確立で彼(カティヤ)の配下であると思われ
200~300名の配下の集団のようですが
頭を失った集団が報復から何を仕出かすか分からない状態です。
タイの軍隊と警察は一度その役職に付いたら
退役しても、その役職名は残ります(おそらく給料+年金の問題?)
今回もカティヤ少将は反政府活動をオープンにして
反政府運動をしていても役職は残っている。
カティヤ少将のこれまでの担当は
反体制派として軍隊内では窓際のエアロビックス担当との事らしいですが
超武戦派の彼が、
どの様にしてエアロビックスダンスを指揮していたのか?疑問です
タクシン元首相自体も元警察官で警察中尉?であり
首相であっても肩書きは残っていました。
また、
軍隊上層部になると自分の職業の軍隊以外に
警備保障会社等のオーナー等の職業を別に持っており
それが、軍隊上層幹部の個人的な下部組織と成って
今回の黒服等の武戦派となって出てきたのでないかと思います。
以上、私の方も正確な情報?か疑問で実態は分かりませんが
当方、バンコク市内の商社(タイPKTテクノ)の方は
こんな状態では、しばらく仕事にもなりませんが
郊外の工場(PLAKO THAI)の方は通常通りの営業をしており
かなり忙しくなりました。
正し
こんな状態が長く続くと先はどうなるか分かりません。
ここしばらくヤマ場を迎えて目が離せませんが、、、、、、、
こんな状態が続く様であれば
私がタイ現地に送り込んでいる日本人とその家族もあります
そして、当方タイ人の社員もいます
デモ参加者のタイ人、これは自分の意思で現在の戦場にいる訳で
私はとやかく申しませんし理解もしていません
ただ私の責任からも
当方、現地の日本人 +その家族 +当方社員全体、、、、
彼らの身を守るためにも早急に落ち着いて治安も良くなり
タクシン派も 反タクシン派も 私には関係ありません。
もとの平和な国と成って
本来の微笑みの国のタイ人の顔に戻って貰いたいものです。

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