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亡き父について

300px-hijmstone-thumb-300x928月14日 朝8:46分、私の父が亡くなりました。
5年位前から入院した状態が続いて居り
この3年位は、私が面会に行っても
私を判っているのか?判らない状態でした
2週間位前から流動食も受け付け無い状態で
点滴のみで延命して居りましたが
8月14日の、お盆前日
人に迷惑を掛ける事を人一倍嫌った父は
病院内でも殆ど周りの人も気づかない
朝日が上った後に一人静かに黙って息を引き取りました
苦しんだ様子も無く、本当の大往生であったと思います。
私も長年の闘病生活と老衰が進んでおり覚悟はしておりました.
享年89歳でした。
本来、葬式は8月16日に行うものでしたが
お寺さんの住職が16日心臓の手術をされるとの事で
8月17日の葬儀となりました。
会社は8月14日~17日まで、お盆休みでしたが
私は当然ですが、お盆休中全て葬儀に関った事に成ります
お通夜、葬儀に出席頂いた方々には
せっかくの休みの中、足を運んで頂き申し訳なく思います。
私の父は第2次世界大戦中、自ら志願し
当時、海軍の上の学校を首席で卒業した筋金入りの職業軍人で
父が24歳の終戦時
軍艦 刀根の大砲の責任者らしき事をしていたらしいのですが
軍艦 刀根は
終戦間際まで沈む事無く 実戦が出来た最後の軍艦で
真珠湾攻撃でも機動部隊の中核として任務遂行し
ミッドウエー海戦でも敵の軍艦を撃沈させており
実績面で最も多くの実績を上げた軍艦で無かったかと思います。
戦後
元乗組員での組織=刀根会や、広島県に軍艦 刀根記念館があり
昔の戦争経験者世代の中では有名な軍艦らしく
軍艦 刀根を終戦まで守り抜いた事を誇りにしておりました。
海軍軍人として最後の任務は
戦後に成って小隊長として戦後処理を行い
戦勝国(アメリカ等)の指示で、軍艦利根を一部解体し和歌山沖?で
自爆させて沈めた事が最後の任務と聞いた覚えがあります。
見方を変えると
本人は相当、複雑な思いであったと思いますが
旧大日本帝国海軍の最後の軍艦を自ら沈め
旧大日本帝国海軍の最後の幕引きをした軍人の一人と言う事になります。
今の平和な時代であっても
私は元軍人の息子と言うことになります。
元軍人の父は、酒、タバコ他、パチンコ等の遊びは一切しない
ただただ、堅物で自分の人生に不器用な真面目人間でした。
私が独立時
商売の仕方も分からず独立し
独立後、半年位で運転資金が続かなく成りました。
その時、私の顔色を見て
『 お前から預かった金ここで返しておくわ 』と言って
通帳2通を私に差し出しました。
( 1通は私の名義、もう 1通は父の名義でした )
私は世間の厳しさ辛さ、そして苦しさと、親の気持ちに涙が止まらず
その金の一部遣わさせてもらい
現在でも、残った金は大切に残してあります。
その後も
私が実家を訪問した際、父から必ず出てくる言葉が
『 如何じゃ、忙がっすいかい 』、これが毎回の挨拶言葉で
私が毎回の事なので、面度臭く返事すると逆に安心していた様でした。
そして
大した工賃では無かったのですが
私の仕事の内職を母親と二人で10年余り
お金の事は一切言わず応援して助けて貰っていました。
現在の私、その様な親の裏での応援があって成り立っています。
また
戦争前の昭和14年位?のまだスキーが一般的で無い時代
中部日本の大会でスキージャンプ部門で優勝
スラローム(旧滑降)も上位であったと聞いていますが
父は、この様な事を自分から自慢して口にする事は無く
私が小さい時、家の屋根裏に古い競技用のスキー板があり
私が不思議に思って
父に聞いて初めて知り、その時の賞状も見せてくれました。
周りの人はともかく
私ら家族(私の兄弟等)すら、よく知りませんでした。
戦争が終り、自分の乗船していた最後に残った軍艦を
自ら沈める事で旧海軍の幕引きの任務を自らも果たし
それまでの
戦争 ⇒志願兵(職業軍人) ⇒極限の命がけの日々を送り
戦後、此れまでの張り詰めた気力が薄れ
自分の、それまでの人生に否定的部分があったのかも知れません。
その後
隠居した65歳位に成るまで遊び事は一切せず
隠居後、唯一地区の人たちとゲートボールを楽しんでいました。
これも今まで
遊びらしい事をしなかった人間がかなりのめりこんでいた様で
私も、それまで父の遊事は一切見たことが無く
当時、私がからかうと、  自分で照れくさそうに
何か悪い事をしている様な顔をして言訳めいた事を言ってました。
葬儀の際、喪主の私の兄が挨拶でも述べましたが
私ら家族の内には厳格で、外には反対に人一倍やさしく対応して
私は小さい時から
このギャップが如何にも理解出来ず父に反抗もしました。
しかし今
父の葬儀も終り、私が理解できるのは
やはり私の父は元軍人でした。
父は8月14日 朝8時46分に亡くなり
8月15日 お盆で終戦記念日です。
8月17日 葬儀を行い天国に行きました。
先祖は、お盆前の迎え火と共に帰ってきます。
迎え火と共に、父の昔の戦友も帰って来ました。
同じ海軍で戦死した父の兄も帰って来ました。
そして、亡くなった親や兄弟も帰って来たと思います。
終戦65年
私らは、知らない遠く過去の出来事かもしれません
時代が変わり、いくら風化しても
終戦記念日前日の、8月14日まで生きて守りぬいた事を
昔の戦友等は、皆誉めて労ってくれたと思います
戦死した戦友から、年老いた姿を見て からかわれたかも知れません。
そして8月17日葬儀
お盆空けの、送り火と共に
昔の戦友や親兄弟等と一緒に天国に行った事に成ります。
私ら家族の前でだけ見せていた厳格な父の姿
私ら家族の前では
自分の誇りである、軍人魂を棄てる事は出来なかった
やはり、旧大日本帝国海軍軍人であった。
戦争が終わっても、心の奥底に軍人魂を隠し残した人生であった
しかし戦争が終り
今の平和惚けした世の中と成って年齢と共に旧軍人も少なくなり
戦友や戦争経験者が居なくなればなる程
忘れられた、遠く暗い過去の物語と成って風化してしまい
戦争と 旧軍人は否定された様な存在となってしまった。
父の晩年の人生は、そんな人生だったと思います。
そして、酒、タバコ、娯楽等、一切しない不器用な人間の人生
父の幼い時から戦後までの自分の人生観から表面は隠しても
他の生き方が出来なかった一人の 人の 人生だったと思います。
父の死
私の年代の幼い頃の
父の強さと逞しさは誰でも理想として残っています。
そして
一般的に戦争経験者は次の世代に戦争の多くを語らない
私が幼い時から見てきた父の人生
父の死から( 8月14日 終戦記念日前日) 葬儀までの
父の人生の本当の幕引きまで
私が父の人生をまとめ上げるとしたら
旧軍人と整理する事で纏め上げる事が出来ると思います。
人生、ご苦労さまでした。
そして天国で落ち着いたら、元戦友と昔を大いに語って下さい。
亡き父の人生を考え
旧大日本帝国海軍 軍人に敬礼し、改めて合掌致します。