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プラコータイ 元従業員について

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080718

この4年間、10月に成ると思い出す事があります。
それは、今から4年前の10月に成りますが
プラコータイ(PLT)の創業当初
立ち上げの何も無い状態から協力してくれた
元従業員が亡くなりました。
彼女の名前は 《 クッカイ 》 といい
プラコータイの創業当初に大学を卒業して
すぐに、プラコータイ入社して
3年間当方に在籍後
自分の田舎(ウドンタニ)に帰り
小学校の先生をして1年経過していました。
たまたま私が,タイ訪問時に
プラコータイ日本人責任者から
一年前に会社を辞めたクッカイが、
今年5月に頭に脳腫瘍が出来て
現在は植物人間になっており、
今日か明日かの状態だと報告がありました。
すぐ、私はタイ人スタッフに詳細を調べさせたところ
やはり延命治療を行っており
何時まで持つか判らないとの事でした。
当社を辞めた人間ですが
私から見れば外国のタイで事業を起こし
プラコータイ創業当初のスタッフでもあり
このまま日本に帰ってしまえば
彼女に会うことも二度と無いと思い
翌日、PKT(タイ PKTテクノ)タイ事務所の
タイ人スタッフと一緒に
日帰りで、彼女の田舎(ウドンタニ)に
見舞いに行く事を決めました。
彼女の田舎はバンコクから飛行機で
1時間位のラオスの国境近くにあり
当日、ウドンタニ到着後
クッカイと幼馴染で 同じ大学を出て同期入社し
数ヶ月前にプラコータイを退社しウドンタニに戻って家業を手伝っていた
ピッサマイ が空港に迎えに来ており、彼女の案内で病院に向いました。
病院は車で空港から30分位の処に病院があり
9:00頃、病院に着きました。
クッカイは 集中治療室に入っており、朝の面会時間はもう終わっていましたが
日本からわざわざ面会に来た、という事で特別に面会をさせてもらいました。
久しぶりの面会
ハッキリ言ってショックでした。
20代の、まだ充分若い娘が延命治療室で機械により呼吸をしており
目を閉じたまま 顔の表情一つ無い、本当に機械だけで命をつないでいる。
一年ぶりに再会して、まともに声も掛けられない。
手を握って小さな声で  『 クッカイ スースー(頑張れ) 』
と言うのが精一杯で、後は黙って顔を見ている事しか出来ませんでした。
一年前までの、味のあるヒョウヒョウとした彼女とは完全に別人であり
言葉は悪いですか、ただ機械で息だけをしている一つの固体の様で
後は如何表現していいのか判りませんでした。
30分位面会して、家族の方とも1時間近く面談し
日本スタイルであれば、入院すると見舞金がありますが
タイ スタイルでは、その様な金は香典に当たるとの事で
失礼の無い様に家族に日本スタイルを説明して見舞金を渡し
数ヶ月前から、事務所に飾ってあった日本人形をお土産に受け取ってもらい
病院を後にしました。
その後は
同行のスタッフから帰りの飛行機が21:30分で、まだ10時間近くあり
ラオスのビェンチャンに1時間30分位でいけるから訪問しませんか?
との事
当方スタッフも、この地区(ウドンタニ)の出身でラオ語(ラオス語)を
話す事が出来、時間調整の為にラオス訪問する事にしました。
私は途中、車の中で
プラコータイを稼動させ、すぐに、憎めない味のあるクッカイが大学を卒業して入社し
私も定期的にタイを訪問しているだけで、彼女とは小さな関りでしたが
新年会で騒ぎすぎて、当社タイ人社員の彼氏から叱られ、べそを掻いて泣いていた事や
会社パーティで、私からのプレゼントを受け取り、感激して私の頬にキスをしてくれた事
そして
PKT(タイPKTテクノ)が、プラコータイ事務所から独立して事務所を構える際に
PKT責任者の日本人に、半分冗談で?、PKT事務所に、どうしても一緒に行きたい
と言っていた事など
ただ ボッとしながら、これまでの彼女との関りを思い出しておりました。
ラオス入国後、首都ビェンチャンに着き
昔はフランス領の為、凱旋門があり首都であっても町そのものは大きく無く
町も人も素朴に感じました。
その後、メコン川を見ましたが海まで数千キロの上流でも、
川幅は1km位あり ビックリしましたが
朝の病院訪問の事もあり、素直に観光気分には成れませんでした。
そして同行のスタッフに
バンコクに帰る前に、もう一度病院に行きたいと伝えラオスを後にしました。
病院には18:00頃に戻り
すぐ集中治療室に入り クッカイと再度会いました
私も彼女と会うのは、これが本当に最後と思い彼女の手を握って
日本語で
『 クッカイ、社長やぞ、、判るか、、、 元気出せよ 』
と今回はハッキリと声をかけたところ
それまで人工呼吸機で定期的に大きく機械の様に呼吸をしていたのが
急に止まり
しばらくしてから、彼女の目から少しずつ涙が出てきました。
私は余りにも突然の事で しばらく言葉も出ませんでしたが
再度
『 クッカイ元気になって、プラコータイに戻って来い 』 と手を握って
言ってやるだけが精一杯で、後は声も詰まり、言葉も浮かびませんでした。
そして、私が集中治療室を出るまで
クッカイは人工呼吸器での呼吸はせずに、目を閉じたまま涙を浮かべており
私は部屋を出る際、彼女の涙を手でふき取ってやり
最後に 『 クッカイ パヤヤーム スースー ナ 』と最後に励まし
私は切ない思いだけで、如何にも成らない、如何してやる事も出来ない
ただ不愍であり、切なく苦しく 後ろ髪を引かれる思いで集中治療室を出ました。
彼女は私の事を、いつも少し高めのトーンで 『 シャッチョウ 』 と呼んでいましたので
彼女にとっての シャッチョウ と言う言葉の人間は 私しかいません。
今の彼女は、身体も動かず、目を閉じたまま、意識が有るのか判らない状態
そして日本語も、まともに知らないタイ人ですが
彼女にとっての シャッチョウ である私を 最後に理解できたのだと思います。
集中治療室を出て
私の手を取って、泣き崩れる両親に挨拶をして
それまで気丈に振舞い、病院玄関まで送りに来てくれた
彼女の、お姉さんとも最後の最後に泣き崩れながらの最後の挨拶となり
元社員のピッサマイとも、挨拶を済ませ病院を後にして空港に向いました。
私も当方スタッフも言葉は少なめで、夕食はレストランに入りましたが
ビールを少し飲むだけで余り食べませんでした。
ただ黙って物思いに耽るだけで、そのままバンコク行きの飛行機に乗り
22:30分頃バンコクに到着、空港でスタッフと分かれて帰宅しました。
翌日(金曜)夕方に プラコータイから
クッカイの体から集中治療器が取り外され 息を引き取ったと報告が来ました。
そして
一緒に仕事をしていた古株の タイ人スタッフ+ワーカー15人位から
泣きながら、日曜日のクッカイの葬式に出たいとの申し出があり
幸い、翌日の土曜日は休日でしたので許可を出し
会社で小型バスを手配してやり、片道6時間かけて葬式に行かせました。
その後、報告を受けた際に判ったのですが
本当は私のウドンタニ訪問日に集中治療器が取り外される予定であったと
聞かされました。   その時点から、私は何であったのか?
彼女の両親は
自分の可愛い子供に、これ以上の苦痛を与え続けたく無いと云う
親が子に対する愛情故の苦渋の選択の実行日であったと思います。
私は、
親が子に対する愛情故の苦渋の判断の中に割り込んで入ってしまった事に成ります。
4年経った今でも、自分はいったい何だったのか、、その思いは残っています。
その後
クッカイはタイスタイルの葬儀で火葬にされた後、灰を花火に仕込んで
空高く打ち上げられ、そのまま空から静かに故郷の大地に戻り
クッカイの幼馴染の元社員の  ピッサマイは
それから数ヵ月後
クッカイに代わり、プラコータイにスタッフとして復帰して来ました。
人生、良い悪いは別にして人との関りの中で生きて行きます。
私も一応、シャチョウ(社長)をしており、情に流され判断を誤る事は絶対に禁物ですが
悪い関り合いは別にして
良い関り合いは、国、性別関係なく大切にして、少しでも長い関り合いを持ちたいものです。